2012年4月16日月曜日

トップページへ


トップページへ

  虐殺の地、アウシュビッツ

 アウシュビッツ(現在はポーランド語でオシフェンチウム)。今回の旅で一番来てみたかったところであり、また来たくなかったところでもある。

 改めて言うまでもないが、ここは第二次大戦中にナチスがユダヤ人絶滅作戦を行った多くの収容所の1つだ。収容者用の入口には有名な'Arbeit macht frei.'(働けば自由になれる)の文字も見える。「B」は上の方が大きい不自然な形になっているが、これは作成した人がせめてもの抵抗のために作ったとも言われている。収容者はこの言葉を信じて門をくぐったが、生きて出ることが出来た人はシンドラーのユダヤ人や脱走に成功した人など、ごく僅かだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 収容所は全部で28棟あり、その中の幾つかが展示館になっており、毒ガスチクロンBの缶や犠牲者の遺品・写真が展示され、ガス室、死体焼却炉、多くの収容者が銃殺された壁、4人の囚人を詰め込んだという立ち牢などは当時のまま残されている。

 一番戦慄を覚えたのは、最初の展示館にあった物凄い量の髮の毛。高さ3m、奥行5m、長さ50mはあっただろうか。数万人分、いや数十万人分あったかも知れない。人間の体臭が「ムッ」と鼻につくのがたまらない。ナチスはこれを原料にじゅうたんなど様々な製品を作ったのだそうだ。近くにはこの10倍の規模のビルケナウ収容所跡もあるそうだが、ここだけでもう十分。とてもそんな気は起こらない。けれども僅か50年前に起こった人類の悲劇から、我々は決して目を背けてはならない。

 

 クロード・ランズマン監督の映画「ショアー」(1985年 ヘブライ語で「絶滅」)はインタビューによって構成される9時間半の大作で、生き延びたユダヤ人はもちろん、元親衛隊員やポーランド市民など様々な人の証言で大虐殺の全容を明らかにすることを試みている。その証言はあまりに生々しく、正に背筋が寒くなる、としか言いようがない。

 

 宿泊はクラクフYH。ポーランドにしては珍しく?明るい感じの所だ。でもここまで来るのが大変だった。アウシュビッツから列車を間違え、2つ先の駅で降りて1時間待たなければならなかったし、YHに着いてからは同室のポーランド人ティミオスがシャワーに行って鍵がかかり、しばらく待たなければならなかった。彼は「ヒトラーがソ連を攻撃した時、何故日本も攻撃しなかったのか」と敵意を示す一方、ドイツ統一にも不満そうだった。18世紀後半にプロイセン、オーストリア、ロシアに分割され、大戦初期には独ソ両軍に占領されるなど、歴史的に両国に苦しめられてきたポーランド人の屈折した気持を垣間見た気がした。宿泊は40,000Zt、ガイドブックによると1年半前は 1,600Ztらしいからインフレの凄まじさが分かる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 2001年にポーランドを再訪した際、11年振りにアウシュビッツも訪問した。今回はクラクフからタクシーをチャーターした。ホテルのフロントで紹介された時は300Ztと言われたが、直接交渉で相手が250まで譲歩した(チップを含め260Zt=¥9,000払った)ので納得した。


聖書のインタプリタのいくつかの機器は何ですか

 前回はあまりの衝撃の大きさに写真も3枚しか撮られなかったが、今回は少しは冷静に見ることが出来た。しかし精神的に重たいのは変わらない。前回と違ったのはビルケナウへも行ったこと。ここは規模的にはアウシュビッツの3倍で、入り口の「死の門」は「シンドラーのリスト」にも登場した。

   * ポーランドでは1995年に千分の一のデノミが実施された

                (1990年9月14日,2001年8月1日訪問)

 

  コルベ神父

 コルベ神父について、本間精一著の「ポーランド未だ滅びず」(東洋出版)から紹介する。

 神父はただカトリックの聖職者という理由だけで1941年5月に逮捕され、ナチスの懐柔も意に介さず砂利採取の強制労働に従事していた。7月末に同じ班の1人が隙を見て逃亡した。逃亡者が出ると見せしめのために10人が処刑されることになっていた。居並ぶ囚人の中で最後の1人に指名されたのが、神父の真後ろの男だった。彼は「自分には妻と子どもがいる。こんなことでは死んでも死にきれない」と叫んだ。その時神父は身代わりを申し出た。神父は11号棟の飢餓房に入れられ、3日間賛美歌を歌い続け、10日目になっても意識がはっきりしていた。そして最後は他の2人とともに心臓に注射を射たれ、天国へ旅立った。8月14日のことだった。神父に救われたポーランド人ガヨブニチェク氏は、奇跡的に収容所から生還し、その後 の半生をホロコーストの生き証人として、また神父の行為を讃える語り部として天寿を全うし、1995年に亡くなった。

 

 

 

  ガス室に消えた画家

 

 時は流れ、1969年ヌスバウムの兄ユストゥスの子どもアウグストさんが抱えきれないほどの絵を持参して、オスナブリュック文化史博物館を訪ね、2年後にはヌスバウム展が開催された。「私の絵を人々に見せて」という遺言が27年目に叶った瞬間だった。展覧会は評判を呼び、また偶然見た骨董屋が多くの作品を所持しているというおまけまで付いた。これを機に郷土の画家ヌスバウム再評価の動きが急速に広まっていった。同時に各地から発見された絵でそれまでの展示室が一杯になったので、ヌスバウムのための博物館建設の気運が盛り上がった。

 こうして1998年、斬新なデザインで話題になったベルリン・ユダヤ博物館の設計者としても知られるダニエル・リベスキンド設計によるヌスバウム館が開館した。

 大内田わこ著による「母と子でみるシリーズ」の標記本には、この間のエピソードはもちろん、多くの興味深い作品が紹介されている。

 

 2005年春の旅の2つめの目的地が、1648年には史上初の国際会議としても名高いウェストファリア条約が結ばれた町の1つオスナブリュックでした。ヌスバウム館は18時まで開館していたので、スケジュール上大いに助かりました。アルンヘムから向かう途中乗り継ぎ列車が遅れ、窓口に問い合わせて紹介してもらった代替列車(ホームで走った!)もやや遅れた上、着いてから美術館を探し当てるまで時間が掛かったので、入館できたのは閉館30分前のことでした。ロッカーへのコインの入れ方がわからなかったり、迷路になっている館内で迷子になったりして、館員の方々には迷惑を掛けてしまいました。それはともかく、やはり生で見る絵にはインパクトがありました。

 翌朝は条約ゆかりの展示がある市役所の講堂のほか、ヌスバウムの生家、水晶の夜で破壊された旧シナゴーグ(ユダヤ教会)跡地、ユダヤ人犠牲者の名を記した碑など、本で紹介されている多くの場所を見学しました。

                        (2005年3月20日訪問)

 

  デンマークの正義

 ドイツに接する小国デンマークに関する感動的な話を、1996年11月12日付朝日新聞の記事で見つけたので、ここにほぼそのままを引用して紹介したい。

 


何がシーク教徒の結婚式で起こる

 デンマークは昔から、ユダヤ人に寛容であった。偏見をもってユダヤ人を見ることを嫌い、人種差別は、デンマーク全体の問題として、無関心ではいられない土壌があった。

 1940年4月にナチスが突然侵攻したが、クリスチャン十世国王は、いつものように馬にまたがり、笑顔をもって国民を安心させた。ナチス占領中も、デンマークにおいては公然と選挙が行われ、宗教も保障されていた。「自由とは政治の単なるかけ言葉ではない。いかに国民一人一人に浸透しているかである」とホロコーストの生還者は語ってくれた。

 しかし42年1月、ナチスはヴァンゼーでの会議でユダヤ人の絶滅計画「最終解決」を決議した。その計画が9月に伝えられると、全国民が迅速な救出作戦を実行したのである。

 夜のうちに漁船や貨物船を使って7千人のユダヤ人を隣の中立国スウェーデンに移すことになった。

 一般市民に加え、警官、ビジネスマン、タクシー運転手、医師、牧師らが一致協力してユダヤ人たちを海岸沿いの民家や農場に隠し、10月2日から船による救出が始まったのである。

 エマーソン海峡を挟んでスウェーデンを望む海岸に立った。青い海の向こうにスウェーデンの山並みがかすかに見える。突堤は石畳できれいに整備され、当時の面影はない。ユダヤ人たちは安どの地に向かってここから船出していった。ナチスのしつこい追求をかいくぐって、漁師たちは危険を覚悟の上で協力した。

 不運にも464人のユダヤ人たちがチェコのテレジン収容所に送られたが、デンマーク政府は幾度も抗議を繰り返し、物資を送ったり赤十字などを通して収容所の視察を行ったりした。45年4月、突然、白塗りのトラック35台が生き残った423人を救出するため収容所に向かい、見事に彼らを連れ帰ったのである。デンマークの人々の喜びは大変なものだった。

 差別のマークを着用することなく、帰還したユダヤ人たちにすべての家財などが返還されたのである。

 5歳の時、船でスウェーデンに送られたメルキオール氏は誇らしげに、「デンマークは国王をはじめ全国民がホロコーストの不正と戦い勝利を得たのです」と語られた。またテレジン収容所から帰還したフッシャーマン氏は、悲惨な体験を語った後、「デンマークは本当の自由を知っている。今国民は今も変わらずにこの精神に生きているのです」と。

 デンマークはホロコーストの苦難を受けた30カ国の中で、唯一の、だれ一人としてアウシュビッツに行くことのなかった国なのである。

 

 最初に感動的な話と書いたが、正義の点から考えると至極当然のことと思える。しかし、戦争中ドイツの占領地でユダヤ人の絶滅が実際の政策として行われ、大多数の人々が傍観、場合によっては積極的に協力していた中での国民挙げての行為は、やはり素晴らしいとしか言いようがない。

 もちろんデンマークだけでなく、国のレベルでユダヤ人を守った国もある。マイケル・ベーレンバウム著の「ホロコースト全史」(創元社)を参考に紹介する。

 フィンランドは、1942年にヒムラーから最終解決を実行するように圧力がかけられた時に「わが国にユダヤ人問題はない」と突っぱね、8人を除くユダヤ人はスウェーデンに避難した。ブルガリアでも国民の世論を背景に、国外の絶滅収容所に送られたユダヤ人はいなかった。

 意外なのは、ヒトラーの同盟者ムッソリーニがイタリアを支配していた間(後のドイツの傀儡期間は除く)1人のユダヤ人も移送されなかったことだ。イタリアでは元々ユダヤ人の割合が0.1%とごく少数で、反ユダヤ的風潮がなかったこと、またイタリア人の「法律を無視する性向」が多くのユダヤ人を救った。

 

 「ライフ・イズ・ビューティフル」

 大戦末期のユダヤ系イタリア人とその家族の運命を描いたのが、上記タイトルの1998年イタリア映画だ。


カルマは何ですか?

 本屋を開業する夢を持ってトスカーナの田舎からアレッツオにやって来たグイド・オレフチ(ロベルト・ベニーニ 監督も)はドーラに一目惚れ。あの手この手で彼女に近づく。そして彼女の婚約発表パーティーの日に連れ出し、結婚する。やがて2人の間に長男ジョズエが誕生する。一家に幸せが訪れたのも束の間、一家の周辺でもユダヤ系に対する嫌がらせが頻発するようになる。

 ジョズエの5歳の誕生日、ドーラが留守をしていた間にグイドとジョズエが姿を消していた。ドーラは慌てて2人を追いかける。そして純粋なイタリア人だった彼女も求めて一緒に収容所へ向かう。

 グイドはジョズエに「これはゲームだ、一等の賞品は本物の戦車だ」と説明し、信じ込ませよう(ドイツ語を滅茶苦茶に訳す場面は笑ってしまう)とする。戦争も終わりに近づき、ドイツ軍の撤退が始まる。ドーラを探しに行くグイドだが…。

 最後に「これが僕の物語」のナレーションが入っているので、実話を映画化したものだろう。多少現実離れした面もあるが、グイドがイタリア人らしく楽天的な中にも必死になっているのが伝わってくる。そしてジョズエが隠れていたロッカーの前を通る時にドイツ兵の歩き方(グースステップ)を真似ている姿は、涙を誘う。完全なハッピーエンドでないのは残念だが、グイドの家族への限りない愛情を感じさせる映画だ。そしてどんな時でも希望を失ってはならないことも教えてくれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

               

 2002年の6月にはサウンドトラック盤と原作を購入していたが、7月には遂にロケ地を訪問した。映画に何回も登場するグランデ広場は、何とも趣のある傾斜した広場。そしてサンフランチェスコ教会周辺では、雨の中2人で歩くシーンなどが撮影された。ほかにも何カ所かロケ地が書いてあったが、YHが予想外に遠かったこともあって、全ては見学できなかった。

  (初めて映画を見た日 2001年1月21日,ロケ地訪問 2002年7月28日)

 

  スウェーデンの「中立」

 スウェーデンは第二次大戦では中立国として連合国側にも枢軸国側にも加わらなかったとされているが、欧州各国の首脳を集めてホロコーストと教育に関する初の国際会議を前に、ナチス・ドイツ寄りの「中立」であったことを認めた。

 それによると、ドイツ軍がフィンランドやノルウェーに侵入した際に通過を許しただけでなく、ドイツの軍需工場のために鉄鉱石を売却し、もとはユダヤ人の所有だったとみられる37.3トンの金塊をドイツから譲り受けていたなどを明らかにし、ペーション首相は「戦争中にスウェーデンで起きたことに政治的、道義的責任を負わなければならない」と述べた。

 なお会議に先立ち、スウェーデン人外交官ワレンバーグ(記事中はヴァレンベリィ)の功績を讃える式典が行われた。(参考 2000年1月25日付産経新聞)

 

  ワレンバーグの超人的な意志

 ユダヤ人を救った人は少なからずいるが、ワレンバーグは武器を持つことなく、僅か6ヶ月間に10万人とも言われるユダヤ人を救った。「最も多くの人命を救った人」としてギネスブックにも登場している彼を、1994年5月22日に日本テレビ系列で放映された「知ってるつもり!?」、「伝記 世界を変えた人々E ワレンバーグ」(M.ニコルソン、D.ウィナー著)から紹介する。

 


 ラウル・ワレンバーグは、1912年にストックホルムで生まれた。父は生まれる前に亡くなったので、日本公使を務めたこともある祖父が父親代わりとなった。アメリカの大学で建築を学んだ後、1935年に建築士の資格を取り帰国した。「商売を学んだ方が良い」との祖父のアドバイスに従って、パレスチナのハイファに向かった。そこでドイツを追われたユダヤ人からドイツ国内の迫害について聞き、1/16流れているユダヤ人の血(母の祖母がユダヤ人)が騒いだ。祖父が亡くなった1937年に祖国で一族が経営する銀行に就職しようとするが、彼の才能に銀行を乗っ取られることを心配した一族によって、就職は阻止された。

 そこでハンガリー、ブダペストにある食品関係の貿易会社に就職する。そしてある日偶然ユダヤ人が連行されるのを知る。

 1944年6月、会社のオフィスはストックホルムに移っていた。偶然同じ建物にアメリカ公使館が入っており、オルセンいう男が面会を求めてきた。内容はアメリカの資金援助で、ユダヤ人を救って欲しいというものだった。スウェーデン外交官として身分を保障されることを条件に引き受けた。

 スウェーデンの外交官パスポートを与えられ、1944年7月9日にブダペストへ再びやって来たワレンバーグは、商売を通じてドイツ人が書類に弱いのを知っていたので、スウェーデン政府の保護下にあることを意味するSchutz-Pass(シュッツパス)と呼ばれる書類を発行した。国際法上は無意味な書類だったが、ドイツ兵には恐るべき効果を発揮した。またブダペスト市内にセイフハウスと名付けた建物をスウェーデン大使館の名で設け、最盛期には32軒、千人のユダヤ人が安全に暮らしていた。

 彼の超人的な活動は、パスを渡し損ね列車が出発した時には、ドイツ兵を押し倒してホームに駆け上がり、開いている窓からパスを渡し続けた。子どもたちが銃殺されそうになった時には、ハンガリー・ナチス兵のポケットに札束を詰め込み、「子どもたちはスウェーデン国王の保護の下にある」として取り戻した。

 1944年10月15日にハンガリー・ナチス、矢十字党によるクーデターが起こり、新政府はシュッツパスが無効であることを宣言した。そして2日後には一時ブダペストを追われていたアイヒマン(戦後南米に逃れていたが発見され、イスラエルで死刑判決を受けた)が帰ってきた。11月8日にユダヤ人を国境まで強制的に歩かせる「死の行進」が始まった。この時国境で待ち構えていたのがワレンバーグだった。彼はその場でこっそりパスを渡すなどして、何千人もの人々を救った。12月末にソ連軍が間近に迫ると、ゲットーに住む7万人のユダヤ人を殺すよう命令が下った。ワレンバーグは親衛隊の隊長に「私はあなたを戦争犯罪人にして、絶対絞首刑にしてみせる」という手紙を送り、この殺人計画を結局中止させた。もう彼の行動は神� ��かりとしか言いようがなかった。しかし身の危険を感じるようになり、2日と同じ場所で休むことはなかった。

 ハンガリー解放後はソ連に接近し、1945年1月17日に「ソ連とユダヤ人の今後について相談してくる」の言葉を最後に姿を消した。1957年になってソ連政府は、彼を逮捕し、1947年に死亡していたことを明らかにした。スターリンにとっては伝説の人は邪魔以外の何ものでもなかったし、また人を助けるためにあれだけのことをすること自体、全く理解できなかった。

 このように素晴らしい人が日本ではあまり知られておらず、また資料が十分ないのは残念でならない。

 2001年1月13日の読売新聞によれば、1947年に彼が死去していたとの結論は根拠がなく、1989年までソ連で生存していた可能性を示唆する報告書をロシア、スウェーデンの合同調査団が発表したことを報じている。個人的にはゴルバチョフ時代になっていたのだから、その可能性は薄いようにも思える。

 



These are our most popular posts:

アウシュビッツ強制収容所の奴隷労働:Auschwitz ブナ・モノビッツ;鳥飼 ...

強制収容所のゲートには,囚人を欺き,反乱を起こさないように,このような偽りの標語 が掲げられた。三文字目のBが ..... 労働可能者は,過酷な条件の下,軍需工場での 奴隷労働,収容所の作業班に充当され,生きることを許される。しかし,栄養失調や病気 ... 基幹収容所の焼却炉ⅠCrematorium I(設計図)は1940年8月15日-1943年7月まで 稼動し,1日340名の処理能力があったという。 ここに試験的なガス ...... 1944年2月3日 のアンネの日記に「どの新聞を見ても,上陸作戦のことで持ちきりです。」とある。 オランダ人 ... read more

フリツォフ・メイヤーの新説批判(マットーニョ)

本研究会は、研究目的で、このメイヤー論文(Fritjof Meyer, Die Zahl der Opfer von Auschwitz)の骨子を紹介するとともに、マットーニョの批判(Carlo .... われわれは、この ような大量殺人が技術的にどのように可能であったのか問うてはならない。 ..... 自然死 した16000体の焼却は、文書資料に記載されている石炭の消費量に対応しているのに、 ガス処刑された118000体の焼却はどのような条件であってもありえないことである。 read more

アウシュヴィッツ 伝説の終焉(マットーニョ)

... ためであった。あとで、プレサックはこの難点をどのように克服しようとしたのかを検討 しよう。 ... アウシュヴィッツ:ガス室』(Auschwitz: le camere a gas) .... この結果は、 吸気システム(Saugzuganlage)の助けを借りた好適な条件のもとでのみ可能であった 。 read more

世界遺産 - Wikipedia

負の遺産としてしばしば挙げられるのは、原爆ドーム、アウシュヴィッツ=ビルケナウ 強制収容所、奴隷貿易の拠点であったゴレ島、マンデラ大統領が幽閉された島ロベン島 。 .... また、委員会は、暫定リスト作成では、まだ登録されていないような種類の物件に 光を当てることや、世界遺産を多く抱える国は極力暫定 ... 世界遺産は、登録時に存在し ていた「顕著な普遍的価値」が失われたと判断された場合、もしくは条件付で登録された 物件 ... read more

0 件のコメント:

コメントを投稿