2012年4月29日日曜日

Laudate | 聖人カレンダー


9月の聖人

1日 聖ジル修道院長

?-720年ごろ

 ジルは、ギリシャのアテネの裕福な家に生まれた。幼くして両親に先立たれ、多くの財産を相続し、その地方でも有名な人物に成長した。しかし、こうした生活を嫌い、全財産を貧しい人に分け与え、自らはフランスのローヌ河口の洞くつで隠遁生活を始め、植物の根と水とミルクという質素な生活を送った。ある日、西ゴート王フラヴィウスが狩猟をしていたときに、ジルと出会い、その徳に心を動かされて修道院を建てる援助を得た。ジルのもとに多くの弟子が集まり、修道院は発展した。彼の墓の近くに建てられたサン・ジル街は、有名な巡礼地として知られている。彼は、てんかんや不妊症に苦しむ人たちの守護の聖人といわれている。



2日 聖パウロ(エジプト)修道士

228年ごろ-341年ごろ

 パウロは、エジプトのデバイスに生まれた。ローマ皇帝デキウスの迫害下に、異教徒である姉の夫の密告を逃れるため、荒れ野に身を隠した。パウロは、洞くつの中で祈りと苦行の生活を送り、60年もの間、誰にも会うことがなかった。彼のもとに毎日、カラスがパンを運んだという。113歳になったときに、修道生活の父と呼ばれる聖アントニウスから見つけ出されたといわれている。



3日 聖グレゴリオ1世教皇教会博士

在位590年-604年

 グレゴリオは、ローマの裕福な貴族の家に生まれ、哲学、法学などを学び、キリスト教の書物にも親しんでいた。

 ローマ市長官であった父が、公職を退いて修道士になったことから、彼も家を改築してベネディクトの会則を基礎に、祈りの生活に励んだ。数年後、教皇ペラギウス2世のもとで助祭となり、コンスタンティノープルに教皇特使として派遣された。そこで6年間の任務を果たしつつ、ベネディクト会の修道士として生活した。

 その後教皇に選出されたグレゴリオは、教会内外の教化に励み、教皇とは「神のしもべのしもべ」であると称して、教会のために力を尽くした。596年には、ベネディクト会のカンタベリーのアウグスチヌスと40名の宣教師をイギリスに派遣し、このため多くのアングロ・サクソン人がキ� ��スト教徒となった。また彼は、典礼と教会音楽の刷新にも取り組んだ。このときに作った聖歌の基礎が、「グレゴリオ聖歌」と呼ばれる。多くの著作を残したが、中でも「ヨブ記註解」などが有名である。彼の働きは、教皇権の強化と教皇領の拡大をもたらし、中世社会の実現に大きな影響を与えたので、「大教皇」の名を持っている。



4日 ヴィテルボの聖ローザおとめ

1235年-1252年

 ローザは、イタリアのヴィテルボの貧しい家に生まれた。幼いころから貧しい人々のことを心にかけ、世話をし、ローザ自身は祈りの生活を大切にして苦行に励んでいた。たびたび聖母マリアが彼女に現われた。彼女は聖母の勧めに従い、1247年ころにフランシスコ会第三会(在俗会)に入った。

 当時、ドイツ皇帝フリードリヒ2世と教皇イノケンティウス4世が争っていた。ローザは平和のために力を尽くし、各地を回りながら説教をして多くの人々を感動させ、信仰に立ち戻らせた。しかし彼女の影響力を恐れた皇帝は、1250年にローザをヴィテルボから追放した。皇帝が亡くなった後、故郷に戻り、クララ会のバラのマリア修道院の近くで数人の仲間とともに暮らした。

 1258年に、彼女の遺体はバラのマリア修道院に移さ れたが、遺体は現在も腐敗せずに残っている。



5日 聖ラウレンチオ・ユスチニアノ大司教

1381年-1455年

 ユスチニアノは、イタリアのヴェネチアの貴族の家に生まれ、信仰深い母親に育てられた。ユスチニアノは、名誉や快楽に心を引かれたが、19歳のころ回心し、司祭となって神に生涯をささげたいと望んだ。そして司祭の伯父がいる聖ジョルジョ修道院に入って、勉学、祈り、苦行の生活をし、物乞いをする勤めも果たした。司祭になった後、1433年にカステロの司教に任命され、教区改革に力を尽くし、51年には、ヴェネチアの初代総大司教に任命された。ユスチニアノ自身は、生涯キリストに倣った貧しい生活をし、亡くなるときも「イエス・キリストが堅い木の十字架で死なれたのだから」と言って、堅いベッドの上で息を引き取った。



6日 聖カグノールド司教

?-633年

 カグノールドは、聖コロンバンとともに宣教に励んだ人物であり、コロンバンが建てたフランスのリュクセイの修道院の司祭であった。この修道院からは多くの聖人が出て、人々の信仰生活を導き7世紀には、フランスで最も重要な修道院といわれた。
 コロンバンは、アイルランドの厳格な修道規則に従って儀式を重んじたため、フランスのメロヴィング王家の反感を買い、さらに610年にテオドリック2世王の不道徳な行為を批判したことで、フランスを追放された。そのとき、カグノールドもコロンバンに従ってボーデン湖の近くに移り、宣教師として働いた。 612年以後は、イタリアのボッビオの新しい修道院で暮らした。615年にコロンバンが亡くなった後、カグノールドはラオン市の司教となって、教会のために力を尽くした。



7日 聖ソゾン殉教者

4世紀ごろ

 ソゾンは、シチリアに生まれで、名前をタラシオといった。羊飼いをして暮らし、キリスト教の迫害下にあっても洗礼を受け、名前を洗礼名のソゾンと変えるほど熱心であった。ある日、ソゾンはキリストの夢を見、羊を敵から守るための武器を捨て、羊飼いの杖だけを使うように命じられた。彼は、町の神殿にある金の偶像を羊飼いの杖で砕き、貧しい人々に与えた。ところが、あるキリスト信者から偶像を壊したとの訴えがあったので、ソゾンは名乗り出て捕えられた。彼は役人からのどんな責め苦にも屈せず、その勇気は役人たちを感動させ、ソゾンを赦そうという思いに至らせた。群衆のために笛を吹くことを条件に釈放すると言われたが、彼は神のためにしか笛を吹かないと拒否したため、処刑された。



8日 聖アドリアノと聖ナタリア殉教者

?-304年

2012年4月28日土曜日

聖書名言集: 聖書は誰が書いたのか


「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」 新約聖書 ペテロの手紙第二 1章21節

聖書の預言は聖霊が臨んだ預言者によって啓示されたのである。

2012年4月27日金曜日

風カルチャークラブ プログラム・講座・ツアー情報 | 風の旅行社


自然に学ぶ 五感で学ぶ

「自然」をメインテーマに据え、楽しみながら学ぶ場を提案。自然の中にある「野性」、人間を含めた全ての存在のつながりを知る。続きを読む

現地(現場)主義と実践型

2012年4月24日火曜日

Keystoneのアンビリバボー体験談集 Keystone/Keystone


★アンビリバボー体験No.25(自分の過去を暴露します!)

実は読者の方から、「keystoneさんは素晴らしいですね!」なんて言うありがたい言葉を頂きました。
でも、実際は僕は最低な男です。
僕は、皆さんが考えているような凄い人間ではありません。
誰よりも最低な人間です。
それを今から暴露しますので、よく読んだり聴いたりしてみて下さいね。
とにかく僕は最低な人間です。
しかも、過去だけではなく、今現在も最低です。
それを自分自身で暴露していきます。
しかし、その中にあっても、イエス様だけは素晴らしいお方です。
こんな僕の為に死んでくれて、罪も悔い改めればいつでも許し、更に永遠の命も与えてくれました。
なので、自分自身を偽らずに、打ち明けます。

そうすれば、イエス様がどれほど愛が深く忍耐強く、憐れみ深い方なのかが分かると思います。
ちなみにイエス様の命令は、「世界に出て行き、福音を述べ伝えて全ての人を弟子としなさい!」
そして、
私があなたがたを愛したようにあなたがたもお互いに愛し合いなさい!」
この2つです。

その言葉の為に僕は今色々書いています。
クリスチャンの方々はたぶん特にドン引きでしょうね・・・

その一部ですが、最初の恋愛の時のことや結婚の時の話を紹介します。
実は、あるインターネット番組内でこの話が紹介されました。
あまりにもアンビリバボーだと言うことで、ラジオドラマにしたいと言われていましたが、事情があり朗読だけということになりました。
一部の内容しか紹介していませんが、全内容は番組ナビゲーターには送りました。
その全貌を彼女に見せました。
なので、ここでも、紹介したいと思います。

番組動画は以下のkeystoneのブログに張り付けてあります

★ラジオ健康相談室

紹介されていない内容も含めて今から公開しますね。

keystoneの恋ばな・・・「さよならの、後に。」 【弓月ひろみの仮面トークSHOW】

★さよならの 、後に。 Vol.1

高校1年の夏休みに出逢ったカオリとは、9年間付き合ったあとに自分から別れるきっかけを作りました。

それは何も彼女に愛想をつかしたのからではなく、嫌いになったからでもありません。

それどころか、自分の命を捨てても全然惜しくないほどに愛していました。

しかし、彼女はまだ若くてまだまだ遊びたい盛りでしたので、僕のようにすぐにでも結婚したいと言う考えを全く持ってはいませんでした。

又、彼女の母親に「あなたが優しすぎるから、それに甘えてカオリは遊んでばかりだけど、このままではダメになってしまうから、ユウジには悪いけど別れて欲しい・・・」と、言われてしまいました。

確かにそうかも知れな いとは思いましたが、それにしてもこんなに大好きな彼女とそう簡単に別れるなんて出来ません。

それで、僕は悩んだあげくに最後の日にひとつだけ彼女に簡単なお願いをしました。

それは、週末にはいつもディスコでナンパされて、更に外泊してから帰宅するので、最後のお願いとして夜中の2時に彼女の自宅の前で待っているから、必ず僕に逢いに帰ってきて欲しいと言う事でした。

「もし、約束の時間を過ぎても逢いにきてくれなければ、もうそれ以降は逢わない」と告げました。

そして「もし、逢いにきてくれたのなら全てを水に流して再出発をしよう」と僕は言いました。

しかし、約束の時間に彼女は来てくれず、僕� ��泣きながら彼女の家をあとにしました。

「ああ、これで僕の恋が終わってしまった。」

そして、僕は彼女の名前を何回も何回も呼びながら泣きつかれてそのまま寝てしまいました。

ところが、それから2日後に偶然、同級生のミカと9年ぶりに会いました。

ミカとは、小学・中学とも一緒でしたが、僕の事がずっと好きで、中学を卒業してからも僕の事をずっと想っていたと言う事でした。

中学の時には、ミカが僕の事を好きだと言う事がうわさになり、みんなが冷やかすのでわざと大嫌いなふりをしていたので、とうとう三年間全くと言っていいほど口を聞きませんでした。

翌日、ミカとはドライブをしましたが、食事の席でミカが言いました。

ユウジが中学の時にもっと優しくしてくれていたら私の人生は変わっていたかもしれない・・・」

僕は、中学校の時の事をずっと後悔していたので、その場でミカに謝りました。

ところで何年か前には、ミカがスナックで働いているときに、5人の男性から同時にプロポーズをされたそうですが、何と全員僕の職場の同僚だったと言う事でした。

ミカが初恋の話しをしている時に僕の名前を出すと、みんな僕の事を知っていたので、「ユウジに逢いたいから店に連れてきて・・」
と、お願いしたそうですが、みんなに「ユウジは忙しいから絶対に来ない」と言われたそうです。

もちろん、そんな話を僕は一度も聞いた事はありませんでした。

それで、ミカはショックを何度も受けたそうですが、その後、落ち込んでいるときに怖いお兄さんと付き合ってしまったのだそうです。

ミカはその頃、その男のおかげでとても苦しい状況にあり、「もう早く死んでしまおう」と考え込んでいた時に、僕と偶然再会したのでした。

僕はミカに対してとても申し訳ないと思い、「じゃあ俺がどうにかして助けてあげるから安心して!だからもう死にたいとか考えたらダメだよ。」と、言いました。

そして、僕は心の中でこう思いました。< /p>

「カオリは自分の事を必要としていないし、あんなに可愛くていい女だから、絶対に誰かと幸せになれるはず。でもミカはこのままでは死んでしまうかもしれない。・・・それなら自分の事をずっと想ってくれていたミカを守ろう。」

そして、命がけでミカを助けました。

しばらくして、カオリが勤めている喫茶店に行き、「これから自分は彼女と付き合うから・・・」と、ミカの前で宣言し、カオリとはこの日を境にホントに終わってしまいました。

しかし、このあと、カオリへの愛がこれまで以上に更に深く激しくなるとは自分でも想像が出来ていませんでした。

ある土曜日の朝に、ミカは僕の家に泊まっていました。

しかし、何とそこに� ��朝帰りをしたカオリが付き合っていたころのように僕の家に来ていました。

僕はとても困ってしまいましたが、相手は酔っているし、今帰してもこのままだと又来てしまうので、ミカを説得してひとまず家に帰ってもらいました。

ミカを帰すのはとても心苦しい事でしたが、「今日で話をちゃんとつけるから、俺の事を信じて今は悪いけど帰っていて。話が終わったらすぐに連絡するから・・・」と言って帰しました。

ミカが目の前を通りすぎると、カオリは当然のごとく僕の家のドアをあけ、部屋に入っていきました。

久しぶりに2人きりになったのですが、今までとは状況が違います。

カオリの事を愛してはいるので、すぐに抱 き締めましたが、その後真面目に話をしました。

「今までは、愛していたからお前の事を抱いたけど、今は愛しているからこそ、逆にそんな事は出来ないんだよ。それに、今はミカと付き合っているし、別れを選んだのは自分だと言う事をもう忘れたの?」

そう言うと彼女は黙って抱きついてしまいました。

僕はこのままでは、誘惑に負けるかもしれないと思い、「一緒にカップラーメンでも食べよう。」と言いました。

そして、一緒にカップラーメンを食べながら話をしました。

最後まで彼女は納得出来ない様子でしたが、車で送り最後に強く抱き締めて「お前には絶対に誰かと幸せになって欲しい・・・」と言って、家に帰しました。

僕は すぐにミカに連絡をして今あった事を全て隠さずに話しました

しかし、彼女の最初の言葉は「とにかく今すぐ、引っ越しして!」の一言でした。

それから、数日後僕はミカの実家の目の前にアパートを借りました。

ベランダでボケベルが鳴るとミカの家まで聞こえる距離でした。

それから、数ヶ月たったある朝の事です。

出勤前の準備をしている時に、ドアホンが鳴ったので一体誰だろうと思い、ドアを開けてみると何とそこには、カオリがいました。

僕はビックリしましたが、「とにかくそこは目立つから家の中に入って」と言って、ドアを閉めました。

「何でここが分かったの?」と、聞いたら僕の同級生に聞きまくったと言う事でし� �。

そして、「ごめんね。どうしても逢いたくて仕方がなかったから・・・」

と言って、抱きつかれてしまいました。

僕は、とても嬉しかったので思わず強く抱き締めて反射的にキスをしてしまいました。

でも、すぐに我にかえって彼女を車に乗せて話をしながら自宅へ送りました。

お前の事今でも愛してるからほんとは会いに来てくれて嬉しいけど、もうこれ以上は逢えないよ。だって今はミカと付き合っているでしょ?・・・。だから、もう俺をこれ以上苦しめないで・・・お願いだから・・・。」

僕はあまりに苦しくて涙が止まりませんでした。

そして、彼女のおでこと手にキスをして別れました。

僕はその時、� ��ても動揺して心が揺れましたが、ミカの事を考えると、彼女を裏切ることはもう出来ないと思い、もうカオリとは逢わないようにしようと決めました。

そのあと、ミカの職場に行く用事があったので、彼女を訪ねてみると、社員全員からあきらかに睨み付けられていました。

「一体どうしたんだろう?」

と思いましたが、すぐに今朝の事がバレていたのだと分かりました。

アパートの両サイドに兄弟がいて、僕がアパートから女性を連れて出掛けるところを目撃したと言う事でした。

僕は怒っているミカをなだめて正直に話をしてすぐに謝りました。

そして、ミカに「今日からユウジと一緒に住むからね。」

と、言われてしまいました。

し� ��し、いくらなんでも実家の目の前にいるのに、両親に対して知らんぷりは出来ません。

それで、僕は決心をしてその夜彼女の実家を訪ねました。

もちろん、ミカとの付き合いを認めて貰うためです。

しかし、大きな問題がありました。

実は、ミカが以前付き合っていた怖いお兄さんの何倍も恐ろしい父親が僕の事を待ち構えていたからです。

2012年4月22日日曜日

アッシジの星・聖フランシスコが亡くなったときの星空


土曜の夕方、祝福されたフランシスコが主のみもとに移ろうとしていた夕べの晩課の後で、

ラウデ(賛美)と呼ばれるひばりがたくさん、フランシスコの臥す住まいの屋根の上、あまり

 高くないところで飛び交い始めた。鳥たちはぐるぐる輪になって飛び回り、さえずった。祝福 

されたフランシスコと共にいて、フランシスコについてこのようなことを書いてきたわたしたち

は、フランシスコが次のように言うのを何度も聞いたことがある。「もし、わたしが皇帝にお

話できるとしたら、神の愛のために、またわたしのたっての願いのために、どんな人もわた

したちの姉妹であるひばりを捕獲したり害をしたりしてはならないという法令を定めてくだ

2012年4月21日土曜日

殿堂入り 50000HITを超えたいい言葉・名言


殿堂入り名言 50000HIT以上

・スポンサー 
・50134 HIT 

結婚は、臆病者が挑戦できる唯一の冒険である。

・50329 HIT 

緊張がありすぎては自分を出せず、だめだ。 リラックスがありすぎてはだらけてしまう。 いかに緊張とリラ

・50436 HIT 

男なら………!!! フンドシ締めて 勝負を黙って見届けろ!!!

・50471 HIT 

花ならつぼみの私の人生 この青春の始まりを、 悔いのないよう 大切にしたい

・50474 HIT 

パチンコに走る指たちを責めるな。 麻雀を囲む膝たちを責めるな。 水のない多忙な苦役の谷間に、 われを

・50653 HIT 

最高の奴らって 最高に笑うんだ?!! センチメンタル無用 笑顔オンリー有効

・50736 HIT 

愛なしに真の幸福は得られない。 愛あれば永続する不幸はありえない。

・50777 HIT 

たとえ剣を捨てる時が来ても 魂におさめた真っすぐな剣だけはなくすなよ

・50893 HIT 

目の前で命狙われてる奴がいたら いい奴だろーが悪い奴だろーが手ェ差し伸べる。 それが人間のあるべき姿

・50922 HIT 

"君は幸せでしたか?" と聞かれたら俺はあの頃と変わらずこう答えるだろう。 "とても幸せでした。"と

・50962 HIT 

たしかにこの身体だと不自由な事はたくさんある だけど不自由で ある事と不幸である事はイコールじゃない

・50969 HIT 

完全そして永久に どこまでも一緒に行かうとする この変態を 恋愛といふ

・50994 HIT 

人生とは旅であり、旅とは人生である

・51028 HIT 

ダメ元は当たり前!成功したら男前!

・51031 HIT 

私は大切なのは『真実に向かおうとする意志』だと思っている。真実に向かおうとする意志さえあれば、たとえ

・51031 HIT 

ダメで元々 ダメなのが当たり前 うまくいったら男前

・51037 HIT 

人は人 吾は吾なり 山の奥に 棲みてこそ知れ 世の浮沈

・51060 HIT 

1999年、七の月 恐怖の大王が天より降り立つ アンゴルモアの大王を蘇らせ その前後は幸運に助けられ

・51061 HIT 

この世に解けねぇ謎なんて チリ一つ無い事を証明してやる!

・51154 HIT 

未来は一瞬一瞬変わっていく だから先のことを悩むより今を 一生懸命生きればきっといいことあるさ

・51169 HIT 

夜は夢を見て、昼は行動しなさい

・51197 HIT 

挫折した者だけが強くなる

・51229 HIT 

No pain No gain  訳 痛みなくして得るものは無い

・51265 HIT 

ビビりゃ 負けるぜ 臆せば 死ぬぜ。

・51280 HIT 

いつの間にか僕は夜中に一人でトイレに行けるようになった。 電車に乗って会社に通うようになった。 でも

・51395 HIT 

長所を伸ばすより、短所を直せ。

・51550 HIT 

友達なんてのはなー おめーの言うとおり半分はウワッ面だけよ。 残りの半分もほとんど卒業すりゃー自然と

・51574 HIT 

友情ってやつぁ付き合った時間とは関係ナッスィング!

・51697 HIT 

もぉ、俺の目の前で大切な仲間が傷つくのは見たくない。

・51697 HIT 

『歩く』という字は『少し』『止まる』と書く 急がなくていい一歩一歩しっかり進んでください

・51712 HIT 

殴ったね!親父にもぶたれたこと無いのに!!

・51725 HIT 

こんな時、大人は子供に 何て言ったら良い?

・51801 HIT 

旅立った後は残される人がいること、忘れないで下さい。

・51813 HIT 

オラを真似したからってマサオ君はオラにはなれないゾ なぜならオラはオラ、マサオ君はマサオ君だからだゾ

・51850 HIT 

テレビは人間より面白い。 そうでなかったら、私たちは部屋の隅に人間を立たせておくはずだ。

・51886 HIT 

名誉の死で俺達の最後を飾ろう

・51927 HIT 

おもしろき こともなき世を おもしろく

・51940 HIT 

身勝手な約束をして 声も届かぬ遠い空から 死んでごめんじゃないでしょうに…!!! 男が一度…!!!必ず帰る

・51956 HIT 

伝えようとする努力もせずに 解ってもらおうなんて考えるな でもお前が少しでも伝えようとしていたなら

・51960 HIT 

目が前についてるのはなぜだと思う? 前へ前へと進むためだ! 過ぎたことにくよくよせず,前向きに頑張り

・52030 HIT 

正義の味方なんてのは 何処まで行っても個人の正義にすぎん。 いつかどこまで社会と対立するもんだ。 S

・52034 HIT 

もうあの日に 帰りたいなんて言いません。 今の自分を認めて 生きていきます。

・52202 HIT 

生き物は死ぬときには自然に死ぬんだ・・・・・・ それを人間だけが・・・・・・無理に生きさせようとする どっちが正

・52204 HIT 

はいあがろう!!負けた事があるという事はいつか大きな財産になる

・52262 HIT 

歩くのもだいぶうまくなったけど それでもいつか転んだ時は 起き上がろ 手を貸すよ

・52379 HIT 

弱い者ほど相手を許すことができない 許すということは、強さの証だ

・52443 HIT 

自分を信じない奴なんかに 努力する資格はない

・52446 HIT 

情報が誘惑が溢れてるこんな時代だからこそ 僕たちはそれぞれの選択をして行くべきなのだろう

・52496 HIT 

大丈夫 さあ前に進もう 太陽をいつも胸に 嵐が来たら肩組んで その先の光を見よう

・52500 HIT 

男は悔しさをエネルギーにして前進していくのだ! 「 今に見ておれ 」、この言葉を忘れてはいかんぞ!!!

・52678 HIT 

水深40メートル バディと二人取り残された 使えるボンベはひとつだけ 残圧30、片道一人分だ さあ、お前

・52692 HIT 

求めよ、さらば与えらるん たずねよ、さらば見いださん 扉をたたけ、さらば開かれん

・52709 HIT 

最も悲惨なことは飢餓でも病気でもない 自分が誰からも愛されていないと感じることです

・52925 HIT 

お前はまた自分を代価に兄を救おうとしている。 そんな物もうみたくない。二度と・・・

・53004 HIT 

…おれの仲間は…誰一人……!!! 死んでもやらん!!!!

・53032 HIT 

奪い合えば足らぬ、分け合えば余る。

・53085 HIT 

人間にもっとも多くの災いをもたらすのは 人間である。

・53187 HIT 

動物が可愛いのは自分より馬鹿だから。

・53232 HIT 

一体何の為に自分を恥じたりして ねぇその先には何があるの 僕はまっすぐすぎてすぐにぶつかる君の その

・53308 HIT 

君が為、尽くす心は水の泡、消えにし後は澄み渡る空

・53345 HIT 

難しいからこそ……人は人に対し、 手を差し伸べるんじゃないか?

・53464 HIT 

あなたは笑顔が素敵です。 あなたの笑顔はゲンコツを握手に変える不思議な力があります。

・53609 HIT 

恐怖を捨てろ 前を見ろ 進め 決して立ち止まるな. 退けば老いるぞ! 臆せば死ぬぞ!

・53821 HIT 

どんなにどん底でも、どんなに暗闇の中を生きてても、 やり直しのきかない人生はないんだ!!

・53827 HIT 

いいじゃねぇか!お前はお前で!

・53829 HIT 

人は思い込みにより事実を正確に捉えていないことがある

・53885 HIT 

自分自身が変わらなければ、周りの人間は決して変わらない

・53918 HIT 

どんなブサイクにもイイ所の一つや二つあるもんだ。

・53936 HIT 

結婚行進曲を聞くと、戦地に赴く兵隊たちに捧げられる曲を思い出す。

・54014 HIT 

幸せになろうと思わないで下さい。  幸せをつかみに行って幸せをつかんだ人は 1人もいません。   幸

・54041 HIT 

大切なのは、過去に嘆く今ではなく 今を変えようとする未来である

・54292 HIT 

川は、うちのスーパーマーケットばい

・54301 HIT 

人間性にとっての最大の苦痛のひとつは、 新しい思想を受け入れる苦痛である。

・54358 HIT 

笑顔に勝る化粧なし

・54467 HIT 

ほらみろよ ここにいるやつら みんなおまえみてーにいろんな ことかかえてる奴らバッカシなのに楽しそー

・54618 HIT 

大切な人を、命をかけて守れますか?

・54658 HIT 

世界は不完全だ・・・ だから美しい・・・

・54659 HIT 

見える...私にも敵が見えるぞ

・54739 HIT 

人は何かの犠牲なしに何も得ることはできない 何かを得るためには同等な代価が必要になる そのころ僕らは

・54783 HIT 

迷った時は前に出ろ

・54809 HIT 

奇跡なんて、そこら中に転がってる。

・54973 HIT 

男の子ってのはね・・・ 誰だって1回は「地上最強」てのを目指すのさ・・・

・55067 HIT 

お前は、神が"死ね"って言ったら死ぬのかァ!?

・55124 HIT 

何のも変わらないさ・・・ 人は生きて 泣いて 笑って 死んでゆく・・・

・55133 HIT 

約束するのにいちばん手間取る人が、いちばん忠実に約束を守る

・55152 HIT 

がんを宣告された男の子が俺を応援してくれてん。 その子はいつ死ぬか分からんぐらいの状態で、10月の俺

・55160 HIT 

職人は口で語るすべを知らない・・ 故に職人は腕で語る・・

・55321 HIT 

何が君のしあわせ? 何をしてよろこぶ? 分からないまま終わるそんなのはイヤダ!

・55321 HIT 

傷ついた分だけ 優しくなれる 苦しんだ分だけ 強くなれる だから私は 絶対逃げたりはしない。

・55341 HIT 

あなた、自分のしていることが正しいと、信じていますか?

・55358 HIT 

正解なんて無いから 周りにどう思われてるかより 自分がどうあるべきかを考えた方が どう転んでも後悔し

・55411 HIT 

成功する人は、間違うリスクを犯すことが いちばんリスクが少ないと知っている

・55412 HIT 

病気は・・・病気は・・・ どうして私を選んだの?

・55428 HIT 

「こっちの岸から向こうの岸まで渡してやろう」 この"約束"を抱えて"船"は生まれる…! 人を向こう岸

・55455 HIT 

夢見ることができれば、それは実現できるのです。 いつだって忘れないでいてほしい= 何もかもすべては

・55490 HIT 

未完成でも一生懸命やったら伝わるもんやなぁ

・55558 HIT 

母ちゃん!平凡が1番だゾ! 人間普通に生きたいと思っても簡単にいくもんじゃないゾ だから普通の人生が

・55607 HIT 

お前に出来ない事は俺がやる! 俺に出来ない事はお前がやれ!

・55705 HIT 

人間は、行動した後悔より、行動しなかった後悔の方が深く残る

・55716 HIT 

憧れの人の目の前で・・・格好悪い所は・・見せられないもの

・55781 HIT 

こんな身体の傷より やられっぱなしで傷ついた 俺の名の方が重症だ

・55856 HIT 

相手を信じねぇってことは 相手からも信じられねぇってことだ

・55988 HIT 

お前は生きろ。絶対に生きろ。なにがなんでも生きろ。 死ぬな。絶対に死ぬな。最後まで死ぬな。

・56032 HIT 

世界は美しくなんか無い。 そしてそれ故に美しい

・56045 HIT 

法律をつくった人間が完璧じゃないんだ! その法律が完璧なわけはないだろう!

・56089 HIT 

とにもかくにも結婚せよ もし君が良い妻を得るならば、君は非常に幸福になるだろう もし君が悪い妻を持つ

・56123 HIT 

悔しいけど、僕は、男なんだな…

・56135 HIT 

人が創る全ての技術は 「人を生かすか、人を殺すか」 どちらかのためにのみ生み出されます。

・56225 HIT 

なんのために生まれて、何をして生きるのか わからないまま終わる、そんなのは嫌だ。

・56341 HIT 

一度あったことは忘れないもんさ 思い出せないだけで

・56471 HIT 

失敗するからこそ・・・ そこから立ち向かって行く強さがあって・・・ そんな強さが本当の強さだと私は思

・56564 HIT 

やさしい心の持ち主は いつでもどこでも我にもあらず受難者となる なぜって やさしい心の持ち主は 他

・56601 HIT 

悲しいと言うならば空の青ささえも 届かないもどかしさに君は泣くんだろう

・56612 HIT 

全てのボクの様なロクデナシのために この星はグルグルと回る 劣等生で助ェだ! はみだし者でかまわない

・56636 HIT 

戦っても無駄だと、貴方の定めが無駄だと、皆が知って生きるのですから

・56747 HIT 

失敗とは、 あきらめてしまったときにのみ起こる 現実なのだよ

・56806 HIT 

事を行うにあたって、いつから始めようか、 などと考えているときには、 すでに遅れをとっているのである

・56875 HIT 

兄弟とは不思議なものだな 親子ほど密でもなく男と女ほど絡み合いもしないが 弟がもしも腕を斬られたとし

・56923 HIT 

人が笑ってるときに戦争なんかするな。

・56931 HIT 

将来的にもパャRンのメモリは640KBもあれば充分だ

2012年4月19日木曜日

メッヘレン(Mechelen) - ベルギー・フランダース政府観光局


ルーヴェンと同じくダイル川沿いに発展した町で、もともとはフランドル伯の領地でした。1473年にブルゴーニュ公シャルル豪胆王が会計院を置き、1503年にはブルゴーニュ公国の議会が設置されました。さらに1506年にネーデルラントの統治者であるオーストリアのマルガレータ王妃が王宮を定めてからは、ネーデルラントの首都として輝かしい時代を築きました。オーストリアのマルガレータはスペイン王カール五世の叔母で、カール五世もメッヘレンで育ちました。王宮がブリュッセルに移された1531年からは勢いを失いますが、17-18世紀には「メッヘレンレース」の生産によって再び活気を取り戻します。現在はタペストリー、家具、野菜(とくにアスパラガスとアンディーヴ)の町としても有名です。

メッヘレン市観光局
In&Uit Mechelen
Toerismehuis de 'Gulden Arent' Hallestraat 2-4-6, 2800 Mechelen
Tel: +32 (0)70 22 28 00
Fax: +32 (0)15 29 76 53
E-mail: inenui

メッヘレン市観光局(蘭)

鉄道

ブリュッセル中央駅からアントワープ行ICで20分。


市庁舎
Stadhuis


(C)Toerisme Vlaanderen/A. Kouprianoff

2012年4月17日火曜日

冷たい檻の隅に身を寄せ合う犬たち・・ - 動物実験廃止・全国ネットワーク(AVA-net)


 9月8日、保健所の見学に行きました。

 建物は民家から離れた場所にあり、コンクリートで出来た外観は車庫のようで県内3ヶ所の中で最も古く、中に窓はあるが、光取りのためで開くことはなく入り口はシャッターになっている。中に入るとすぐ、ケージに子犬が3頭入れられており聞くと今朝役場の前に捨てられていたという。

 空調については独特の匂いはするけれど、換気はされており、夏場にしては涼しく思えた。しかし、冬場の暖房については何もしていないとのこと「犬は寒さに強いから」と言われたが、コンクリートの床は水で流した後があり、清潔に見えるが冬場なら直接座る犬にとって相当冷え込むだろうと思われた。

 その日、処分される犬達の檻を見ると、食料がおいてないので作業員の方に尋ねると「昨日やりましたから」という答えが。空腹のまま不安だらけで彼らは殺される。

2012年4月16日月曜日

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  虐殺の地、アウシュビッツ

 アウシュビッツ(現在はポーランド語でオシフェンチウム)。今回の旅で一番来てみたかったところであり、また来たくなかったところでもある。

 改めて言うまでもないが、ここは第二次大戦中にナチスがユダヤ人絶滅作戦を行った多くの収容所の1つだ。収容者用の入口には有名な'Arbeit macht frei.'(働けば自由になれる)の文字も見える。「B」は上の方が大きい不自然な形になっているが、これは作成した人がせめてもの抵抗のために作ったとも言われている。収容者はこの言葉を信じて門をくぐったが、生きて出ることが出来た人はシンドラーのユダヤ人や脱走に成功した人など、ごく僅かだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 収容所は全部で28棟あり、その中の幾つかが展示館になっており、毒ガスチクロンBの缶や犠牲者の遺品・写真が展示され、ガス室、死体焼却炉、多くの収容者が銃殺された壁、4人の囚人を詰め込んだという立ち牢などは当時のまま残されている。

 一番戦慄を覚えたのは、最初の展示館にあった物凄い量の髮の毛。高さ3m、奥行5m、長さ50mはあっただろうか。数万人分、いや数十万人分あったかも知れない。人間の体臭が「ムッ」と鼻につくのがたまらない。ナチスはこれを原料にじゅうたんなど様々な製品を作ったのだそうだ。近くにはこの10倍の規模のビルケナウ収容所跡もあるそうだが、ここだけでもう十分。とてもそんな気は起こらない。けれども僅か50年前に起こった人類の悲劇から、我々は決して目を背けてはならない。

 

 クロード・ランズマン監督の映画「ショアー」(1985年 ヘブライ語で「絶滅」)はインタビューによって構成される9時間半の大作で、生き延びたユダヤ人はもちろん、元親衛隊員やポーランド市民など様々な人の証言で大虐殺の全容を明らかにすることを試みている。その証言はあまりに生々しく、正に背筋が寒くなる、としか言いようがない。

 

 宿泊はクラクフYH。ポーランドにしては珍しく?明るい感じの所だ。でもここまで来るのが大変だった。アウシュビッツから列車を間違え、2つ先の駅で降りて1時間待たなければならなかったし、YHに着いてからは同室のポーランド人ティミオスがシャワーに行って鍵がかかり、しばらく待たなければならなかった。彼は「ヒトラーがソ連を攻撃した時、何故日本も攻撃しなかったのか」と敵意を示す一方、ドイツ統一にも不満そうだった。18世紀後半にプロイセン、オーストリア、ロシアに分割され、大戦初期には独ソ両軍に占領されるなど、歴史的に両国に苦しめられてきたポーランド人の屈折した気持を垣間見た気がした。宿泊は40,000Zt、ガイドブックによると1年半前は 1,600Ztらしいからインフレの凄まじさが分かる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 2001年にポーランドを再訪した際、11年振りにアウシュビッツも訪問した。今回はクラクフからタクシーをチャーターした。ホテルのフロントで紹介された時は300Ztと言われたが、直接交渉で相手が250まで譲歩した(チップを含め260Zt=¥9,000払った)ので納得した。

2012年4月14日土曜日

エンジェルヒーリング


大天使たちは、いつも私たちのそばにいてサポートしてくれています。

 

5人の大天使について学ぶことで、天使の特性を理解し

 

天使といつでもつながる実感が持てるようアチューメントをします。

 

5大天使のエネルギーは、あなた自身と他の人の両方に働きかけます。

 

あなたは5人の大天使と守護天使を呼び出し、彼らにどんな物事にも必要なヒーリングが起こり

2012年4月12日木曜日

サラ・シャンティのブログ 10代と20代の若者たちが経済産業省まえでハンスト


今年1月、こごえる山口の県庁まえで
10日間のハンストをやった
10代と20代の若者たちが
今日から10日間、霞が関の
経済産業省まえでハンストに入った。

今回のハンスト概要:
 期間:10日間(240時間)
 日時:9月11日17時〜9月21日17時
 飲食:水と塩のみを摂取

<座り込み>
 場所:経済産業省 正門周辺
 日時:9月11日は17時頃〜20時頃
    9月12日〜21日は8時〜17時半

こんかいの声明文を、以下にご紹介。

  ** ** ** ** **

         声明文

福島第一原子力発電所の事故で多くの方が故郷を追われ、
また、暮らしそのものを奪われました。
この原発事故が収束するまで、放射能が大気中と
大地と海に垂れ流しにされます。

一度事故が起きてしまったら取り返しがつかなく、
誰も責任が取れないことが明確になりました。

2012年4月11日水曜日

ひと【人】の意味 - 国語辞書 - Goo辞書


人有る中に人無し

人はたくさんいるが、真に役に立つ人物はなかなかいない。

人至って賢ければ友なし

《「孔子家語」入官から》あまり賢明であると、他人から敬遠されて孤立してしまう。水清ければ魚棲(す)まず。

人衆ければ則ち狼を食らう

《「淮南子」説山訓から》人数が多ければ、人を襲う狼をも殺して食ってしまう。多数の力の恐るべきことのたとえ。

人衆ければ天に勝つ

《「史記」伍子胥伝から》人が多勢を頼んで勢いに乗っているときは、道理に背いても、一時的には天の理に勝つこともできる。

人が好い

人柄がよい。気立てがよくて、他人の言いなりになりがちである。「―・いのでだまされやすい」

人が変わる

別人のようになる。性格や人格が変わる。「突然―・ったかのように怒り出す」

人必ず自ら侮りて然る後に人これを侮る

《「孟子」離婁上から》自分で自分を尊重せず、軽々しい言動をしたり、修養を怠ったりしていると、必ず人からも侮られるようになる。

人が悪い

人が困るようなことをわざとする性質である。また、人柄がよくない。

人古今に通ぜざるは馬牛にして襟裾す

《韓愈「符読書城南」から》古今の道理を解さない無学な人は、馬や牛が衣服を着たようなもので、人としての価値がない。

人と入れ物は有り次第

人と器物とは、多ければ多いほど便利であるが、たとえ少なくても使い方しだいで用が足りる。

人と成る

おとなになる。成人する。一人前の人間になる。「親にさんざん苦労をかけた末に―・る」

人心地を取り戻す。気がつく。
「やうやういき出でて―・り給へりけれど」〈源・夢浮橋〉

人と屏風は直には立たず

2012年4月10日火曜日

ホロコーストについて■マイダネク強制収容所2■|Bon Vivantへの道


たしか5棟くらいだっただろうか。

展示用のバラックは並んで建っていた。


↑現在のバラック


↑当時のバラック

その中には、当時を伝える貴重な資料が展示されていた。

その数々をできるだけ多く紹介していきたい。

↑これは、列車でマイダネクヘ運ばれたときのもの。

何日も食事はとれず、トイレにもいけないまま列車の中に押し込まれ、たどり着いた場所は廃絶を目的にした収容所。

すでに列車の中で亡くなった人もいたという。

生きてたどり着いたひとでさえ、選別にかけられ、3割しか残らなかった。

↑その残った3割はこのように働かされる。

当時は、第二次世界大戦中。

ナチスドイツとしては、重要な労働力として過酷な労働を強いていた。

"働ける人間には十分に働いてから死んでもらう。"

2012年4月8日日曜日


●タロット占法について
まずは占う
 タロットカードの枚数は大アルカナ22枚+小アルカナ56枚。計78枚である。タロットで占いを行うには、これら78枚の意味するところを知り、習熟しなければならない。これがまた、途方も無く気の遠くなるような作業なのだ。何故ならこの作業は、タロットを扱うものとして生きる限りは、その生涯を通して行わなければならないものだからだ。
 タロットの解説書を見てみると、1枚のカードに対して数十個の意味が書かれている。少なく見積もって15個としても、15×78=1170もの意味を覚えなければならなくなる。では、苦労してでも1170の意味を覚えれば、それで終わりなのだろうか?
 甘い!
 我々が行う� �業とは、解説書に書かれているタロットの意味を暗記することではなく、例えば分厚い国語辞典のア行の単語からワ行の単語までの全てを、タロット78枚のいずれかに割り当てていくような代物なのだ。勿論その国語辞典が終わったとしても作業は完了しない。次ぎから次ぎへとタロットへ割り当てるべき事象は湧いてくるのだ。こんな作業、一生涯かかっても終わるはずが無い!
 なので、カードの意味するところの学習は、タロットの使い手が今後ゆっくりと学んでいけば良い。
 占いを覚えたければ、カードを覚えるよりも、まずは解説書を片手にして占ってみることだ。

 タロットを用いる占いは、占い師各々によって多くの方法が実践されている。占う前の準備から、シャッフルの方法、スプレッドの仕方、

リ� ��ディングに至るまで、10人の占い師がいれば、10様の仕方がある。
 占いに関する方法や手順は、占い師自身が最もしっくりくる方法を探すか、または開発する必要が出てくる。勿論その為には、既存の多く

の方法を学び、実践検証を行う必要があるが、それは占いそのものを学ぶ過程なので、今は特に難しく考える必要も無いだろう。
 ここでは、タロット占いに関する初学者にもお勧めできる、簡単な占い手順を紹介しよう。

タロットの下準備
 購入後未使用のタロットや、誰からか譲られたタロットを使用する場合、占いを始める前に下準備となる儀式を行う場合が多い。
 タロットの浄化・聖別の儀式だ。
 浄化とは、それ以前にタロットについた塵情報をクリアしたり、前使用者の影響をノー� �ルにしたりする作業だ。オカルティズムな言い方をするなら、穢れを払う行為である。
 聖別は、見えざることを占うタロットに、そのエネルギーを充填すること、または他の世俗的なものと分け隔て、聖化することと考えれば良いだろう。
 これらの作業を行う時、人によっては特別な言葉や所作を用いる場合もあるし、人によっては簡単な手順で済ませる場合もある。勿論、人によってはそれらの儀式を省略する場合もあるが、それらも特に決まりごととして存在するものではないので、自由であると考えよう。

2012年4月7日土曜日

マルコポーロ事件 - Wikipedia


マルコポーロ事件(マルコポーロじけん)とは、1995年に日本の文藝春秋が発行していた雑誌『マルコポーロ』が、内科医西岡昌紀が寄稿したホロコーストを否定する記事を掲載し、そのことを理由として廃刊したこと、及び当時の社長の辞任や編集長が解任された事態を指す。この事件は、日本における「歴史修正主義」あるいは「ホロコースト否認論」を巡る状況のなかで、最も広範囲に話題となったもののひとつである。また、日本における言論の自由の保障をめぐる議論のきっかけとなった。

発端は、文藝春秋が発行していた雑誌『マルコポーロ』の1995年2月号に掲載された記事「戦後世界史最大 のタブー。ナチ『ガス室』はなかった。」であった。記事は国立病院に勤務する西岡昌紀が、1989年頃から収集した英文資料と、1994年8月にアウシュヴィッツとマイダネクを自ら訪れ、多数の写真撮影などを行なった上で執筆したものであった。掲載にあたっての題名は、『マルコポーロ』編集部が決めたものであった。

その内容は、ナチス党政権下のドイツがユダヤ人を差別、迫害したことは明白な史実としながらも、

  1. そのナチス党政権下のドイツがユダヤ人を「絶滅」しようとした、とする従来の主張には根拠がない
  2. その手段として使用されたとするガス室は、それらの位置や構造からみて、ソ連もしくはポーランドが戦後捏造した物としか考えられない
  3. 戦後、連合国軍が押収したドイツ政府文書から判断して、ナチス党政権下のドイツが「ユダヤ人問題の最終的解決」と呼んで企図した計画は、ソ連を打倒した後、ヨーロッパのユダヤ人をロシアに強制移住させるものだった
  4. 収容所でユダヤ人が大量死した真の理由は、ガス室による処刑ではなく、発疹チフスなどによる病死である

などというものであった。

この記事を掲載した『マルコポーロ』1995年2月号が発売されたのは、1995年1月17日、阪神大震災が起きた日であった。このため、当初発売直後はマスメディア上の反応は、震災報道に覆い隠されていた。

雑誌発売を受けて直ちに、アメリカ合衆国のユダヤ人団体とイスラエル大使館が、同誌を発行する文藝春秋社に抗議を開始した。特にサイモン・ウィーゼンタール・センター(SWC)が内外の企業に対して、週刊文春をはじめとする文藝春秋社発行雑誌全体への広告出稿をボイコットするよう呼びかけたのは、同社への大きな圧力となった。『マルコポーロ』編集部は、当初、抗議団体に反論のページを提供するなどとしたが、結局、文藝春秋社は『マルコポーロ』自体の廃刊、及び社長・『マルコポーロ』編集長ら記事に対して責任のある人々の解任を決定した。

執筆者の西岡や木村愛二などホロコースト見直し論者はこの決定に抗議を展開した。また、言論の自由の保障をめぐって広範な議論が起こった(もっとも、ヨーロッパではこのような主張はナチ賛美に繋がる犯罪と定義されている)。

[編集] 論文の内容・反論

記事において、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所内のガス室とユダヤ人虐殺の計画自体について、そのようなものは存在しない、と著者は主張している。それには、多くの理由があると著者は主張する。

  1. まず、事実上全ての歴史家が認めているように、ヒトラーが「ユダヤ人絶滅」を命じた命令書は、今日まで発見されていない。
  2. 戦後、アウシュヴィッツで公開されている「ガス室」のなかには、ドイツ人用の病院の前に面しているものもある。これでは、死刑後青酸ガスを排気すると、向かいの病院のドイツ人達の生命が脅かされてしまう。場所と構造があまりにもおかしい。
  3. 「ガス室」の詳細を検討すると、換気扇がないし、ガスの素材であるツィクロンBを加熱するための装置もない。

記事の一部を引用する[1]

冒頭で、著者はこう述べる。

獣をいけにえとして捧げ、火で焼くというユダヤ教の儀式を「ホロコースト」と言った。これが転じて、「ナチスのユダヤ人虐殺」を意味するようになったのは、ナチスドイツがアウシュヴィッツなどの強制収容所にガス室を作り、毒ガスを使って計画的に虐殺、さらにそれを焼いた――という恐ろしい話とイメージが重なったからだ。ところが、このホロコーストが作り話だったという説が、今、欧米で野火のように広がりはじめている。戦後五十年近くもの間、語られてきたこの「毒ガス虐殺」が作り話だといわれて、驚かない人はいないだろう。私自身、この話を六年前に英文で読んだ時には、驚天動地の思いをしたものである。私は一医師にすぎないが、ふとした機会に、この論争を知り、欧米での各種の文献を読み漁るように� ��った。そして、今では次のような確信に達している。

--まず、日本の新聞やテレビが言っていることは全部忘れてほしい。それから『シンドラーのリスト』も一旦忘れてほしい。--

「ホロコースト」は、作り話だった。アウシュヴィッツにも他のどの収容所にも処刑用ガス室などは存在しなかった。現在、ポーランドのアウシュヴィッツ収容所跡で公開されている「ガス室」なるものは、戦後ポーランドの共産主義政権か、または同国を支配し続けたソ連が捏造した物である。アウシュヴィッツでもどこでも、第二次大戦中のドイツ占領地域で、「ガス室」による「ユダヤ人大量虐殺」などは一度も行なわれていなかったのだ。こう断言する理由は後述するが、その前に二つのことを言っておきたい。まず、第一に私は、第二次世界大戦中にドイツが採ったユダヤ人政策を弁護するつもりは全くないということである。たとえ「ガス室による大量虐殺」が行なわれていなかったとしても、ドイツが罪のないユダヤ人を� ��しめたことは明白な歴史的事実である。私はその事実を否定する者ではないことをここで明白にしておく。第二は、近年、アメリカやヨーロッパで、「ホロコースト」の内容に疑問を抱人々が急速に増えつつあるのに、日本の新聞、テレビが、そのことを報道せず、結果的にはそのことを日本人の目から隠しているという事実である。最近は、論争を断片的に伝える報道もでてきたが、そうした報道は、「ホロコースト」に疑問を投げかける者は皆「ネオナチ」か「極右」であるかのような「解説」を加えている。事実は全く違う。「ホロコースト」に疑問を投げかける人々の中には政治的には明白に反ナチスの立場を取る知識人やユダヤ人さえ多数含まれているのだ。例えば、プリンストン大学のアーノ・メーヤー教授は子供の頃ナチ� �の迫害を受けアメリカにわたったユダヤ人の一人で、日本でも有名なきわめて権威ある歴史家である。彼は「ガス室」の存在そのものまでは否定しない「穏健な」論者だが、それでもユダヤ人の大多数は「ガス室」で殺されたのではないという「驚くべき」主張をしている。このことは一九八九年六月十五日号のニューズウィーク日本版でも取り上げられている。また、同じくユダヤ系アメリカ人のもっと若い世代に属するデイヴィッド・コウルというビデオ作家がいる。彼は、ユダヤ人であるにもかかわらず、「ガス室によるユダヤ人虐殺」は作り話だと、はっきり主張しているのである。「ネオナチ」の中にも「ホロコースト幻説」を取り上げる人間はいるだろうが、ユダヤ人の中にも「ホロコースト」はなかったと主張する人間が現 われていることは注目 に値する。とにかく、まず、日本の新聞やテレビが言っていることは全部忘れてほしい。それから、『シンドラーのリスト』も一旦忘れて頂きたい。映画は、歴史ではないのだから。そこで皆さんにまず、何が真実であったのかを先に言ってしまおう。欧米の幾多の研究を一口に要約し結論を述べ、証拠はあとから示そう。そうした方が、皆さんにとって後の話が理解しやすくなると思うからである。

  1. ナチスがその政策においてユダヤ人に不当な差別を加え、様々な圧迫を加えたことは紛れもない事実である。そして、アメリカとの戦争に突入した後、ドイツ本国及びドイツの支配 下に置かれたヨーロッパ諸国ではユダヤ人に対する圧迫が強まり、ユダヤ人を強制収容所に収容する政策が全ヨーロッパ的規模で開始された。この点について、従来の説明は大筋で 正しい。
  2. しかし、ヒトラー及びナチスの指導部は、収用したユダヤ人達の「絶滅」を計画したことなど一度もなかった。ナチス指導部が計画したことは、強制収容所に収容したユダヤ人達を戦 後、ソ連領内などの「東方地域」に強制移住させることであった。彼らはこのユダヤ人強制移住計画をユダヤ人問題の「最終的解決(Endlo"ung)」と名付け、東部戦線でソ連を打倒 した後、実行するつもりでいた。
  3. ナチスドイツが、アウシュヴィッツなど、ポーランド領内に建設した強制収容所は、戦後ドイツがソ連を打倒、占領した後に実行する「最終的解決」のためのユダヤ人強制移住計画の 準備施設であった。すなわち、ナチスドイツは、アウシュヴィッツをはじめとするポーランド領内の収容所に収容したユダヤ人達を戦争中は労働力として利用し、戦後、ドイツがソ 連に勝利した暁には、ソ連領内ほかの「東方地域」に強制移住させる計画であった。従って、この計画とは両立し得ない「ユダヤ人絶滅」などをドイツ政府が計画、実行したこと は、一度もなかった。
  4. ところが、ソ連戦線でドイツが敗退した結果、「ユダヤ人強制移住計画」は頓挫する。そして、戦争末期の混乱の結果、ユダヤ人達がいた収容所の衛生状態が悪化し、チフス等の疾病 の爆発的発生が起きた。その結果、多くの罪のないユダヤ人達が収容所内で死亡した。
  5. 戦後、それらの収容所で病死したユダヤ人らの死体を撮影した連合軍は、そうした病死者達の死体を「ガス室」の犠牲者であるかのように発表した。

読者の多くは、こんな話をすぐには信じられないに違いない。当然である。すぐに信じられる方がどうかしている。私も最初は信じることが出来なかった。読者と同様、私も物心ついてから、あの恐ろしい「アウシュヴィッツのガス室」についてくりかえし教えられ、聞かされてきた者の一人であって、あるきっかけから真実を知るまでは、「ガス室による大量虐殺」を疑ったことなど、ただの一度もなかったのである。しかし、ある機会から「ホロコースト」について実は論争が存在することを知った私は、この論争に関する文献を買いまくり、読みまくった後、「ホロコースト」が作り話であるという確信に至ったのである。「ホロコースト」に疑問を投じる人々は、自分達のことを「ホロコースト・リビジョニスト(Holocaust revisionist)」、すなわち「ホロコースト見直し論者」と呼んでいる。筆者は、一医師であり歴史学を専攻したわけでは全くないが、六年前(一九八九年)に、ふとした機会に彼らの存在と研究を知り、その後、複数の大学教授に手紙などを書いて意見を求めてみた。その結果、有名な国立大学教授を含めた日本の学者たちがそれらホロコースト・リビジョニストたちの主張を全く論破出来ないことを知り、日本のアカデミズムのあり方に疑問を抱かずにはいられなくなったのである。また、英字紙マイニチ・デイリー・ニュースの投書欄で一九九三年五月に大論争をやったことがあるが、その時もリビジョニズムの正しさを確信する経験をしている。 気の早い読者は、「ホロコースト・リビジョニスト」達は、「ネオナチ」かそれに似た人間だと思うかもしれない。実際、「ネオナチ」の中にも「ホロコースト」の虚構を強調するグループはいる。だが、「ホロコースト・リビジョニスト」の中には、明らかに反ナチスの立場を取る個人やユダヤ人も多数含まれているのであって、「ホロコースト・リビジョニスト」を「ネオナチ」や「反ユダヤ」などという枠でくくることは余りに事実と懸け離れている。その反証として最も明らかなものは、最初の「ホロコースト・リビジョニスト」とも呼べる歴史家が、フランスのポール・ラッシニエ(Paul Rassinier)という大学教授で、彼が、戦争中、フランスのレジスタンス運動に参加して、戦後、そのレジスタンス活動の故にフランス政府から勲章まで授与された人物だったという事実ではないだろうか? このラッシニエという学者は、元は地理学者で、左翼思想の持ち主だったため、反ナチスのレジスタンス運動に参加したのであるが、そのレジスタンス活動の故に、ナチス占領下のフランスでゲシュタポに捕らえられ、強制収容所に入れられたという人物なのである。

「戦後世界史最大のタブー。ナチ『ガス室』はなかった」(『マルコポーロ』1995年2月号)より

こうした主張の根拠として、著者は、例えば、こうした点を挙げる。

連合軍は、戦後ドイツで大量のドイツ政府公文書を押収した。それによって、戦争中ドイツ政府が何を検討し、何を命令していたかが明らかになるからだが、その押収されたドイツ公文書の量は、アメリカ軍が押収したものだけでも千百トンに及んでいる。
ところが、戦後、連合軍が押収したそれらのドイツ政府公文書の中に、ヒトラーもしくは他のドイツ指導者が「ユダヤ人絶滅」を決定、命令した文書は一枚もなかったのである。実際、連合国は、ニュールンベルク裁判において、ドイツの指導者が「ユダヤ人絶滅」を決定、命令した証拠となる文書を提出していない。
これに対しては、「ナチが証拠を隠滅したから文書が残らなかったのだ」とか、「ユダヤ人絶滅計画は極秘事項だったので、命令は全 て口頭でなされたのだ」とかいう反論が予想されるが、そうした主張は、あくまでも「仮説」でしかない。事実としてそのような文書は、今日まで一枚も発見されていない。もし証拠となる命令文書はあったが隠滅されたとか、命令が口頭でなされたとか主張するなら、その証拠を提示するべきである。実際、アメリカにはこのような主張をする人々がおり、それなりの「証言」や談話の記録、会議録、手紙などを引用する人すらいるが、結論から言うと、彼らが引用するそれらのものは、全く「証拠」になるようなものではない。具体的には、ニュールンベルク裁判におけるハンス・レマースの証言、ハインリヒ・ヒムラーが1943年10月4日に行なったとされる談話の筆記録、ヴァンゼー会議という会議の記録、ゲーリングが1941年7月31日に� �いた手紙、ベッカーという軍人のサインがあるソ連発表の手紙等々であるが、これらの文書は、しばしばそれらの反論者たちによって「ユダヤ人絶滅を命令、記録したドイツ文書」として引用されるものの、よく読むと、全くそんな文書ではないのである。それどころか、ドイツ政府が計画した「ユダヤ人問題の最終的解決」なるものの内容が、実はユダヤ人の「絶滅」等ではなく、ユダヤ人の強制移住であったことを明快に示す文書が、押収されたドイツの公文書の中に多数発見されている。それらの文書は、ポーランドに作られたアウシュヴィッツ収容所等へのユダヤ人移送が、ドイツ政府にとっては「一時的措置」でしかなかったことを明快に述べている。

「戦後世界史最大のタブー。ナチ『ガス室』はなかった」(『マルコポーロ』1995年2月号)p. 178

このように、虐殺に関しての直接の証拠が存在しないと著者が主張する一方で、強制移住を示唆する文書が発見されていることから、ユダヤ人問題の「最終解決」とは虐殺ではなく「ユダヤ人の強制移住」を意味するものである、と西岡は主張する。

2012年4月5日木曜日

Mount Sinai Hospital - Dr. Radialistからの便り


Mount Sinai Hospital

昨夜は Wall Streatにある有名な Steak Houseで今は倒産して消滅したNew York最古の歴史を誇っていた Saint Vincent's Catholic Medical Centerの Interventional Cardiologistsであられた John Coppola先生、Tak Kwan先生そしてCiezer先生達と久しぶりに再会し、楽しい夕食をとり、それからこれも3年ぶりに Soba Kohに行きました。

Times Square近くにある Hotel Casablancaというヨーロッパ調の落ち着いた小さなホテルの部屋に戻ったのは11:00PM過ぎでした。

相変わらずの時差ボケで眠気が溜まっていたので、すぐにパタンとなったのですが、5階の部屋が表通りに面しており、夜中から朝にかけてずっとゴミ収集が始まり、その音が結構うるさくて、結局1時間毎に覚醒し、ついには4:00AMに起床してしまいました。

「もう 最悪のコンディション」と思い、「今日の Mount Sinai病院での仕事はどうなるのだろう?」と思いました。

6:30 AMに出発し7:00AM前には病院の中に入り、Samin Sharma先生の部屋の前で秘書さんに会い、椅子に座って待ちました。

Mount Sinai病院は大病院であり、この病院訪問は2回目です。冠動脈インターベンションは年間5,000例、カテ総数年間19,000例という多分全米でも一番症例数の多い病院です。この病院にTRIを本格導入するために、訪れたのです。

2012年4月2日月曜日

ジャータカ物語 連載51 チュッラカ長者の話(その1)


出典:Cullakasetthi jâtaka(NO.4)
●監修 アルボムッレ・スマナサーラ長老/●編集:高橋清次

 この物語は、釈尊がラージャガハ近郊のジーヴァカのマンゴー林に滞在しておられたときに、チュッラパンタカ長老について語られたものです。

 この場合、まずチュッラパンタカの出生について語らねばなりません。伝えるところによると、ラージャガハの長者の娘が、自分の下男とねんごろになり、「他の者が私たちのこのふるまいを知るかもしれない」と恐れて、このように言いました。「私たちはこの場所に住むことはできません。もし、私の両親がこの過ちを知るようなことがあれば、私を切り刻んでしまうでしょう。他国へ行って暮らすことにしましょうよ。」そして手持ちの大事なものを持って表の門を出て、「どこでもよいから他の者に知られない場所に行って暮らしましょう」と、二人は出て行きました。

 彼らが、ある場所で一緒に暮らしていくうちに、彼女のおなかに子が宿りました。彼女は臨月が近づいたので、夫と相談しました。「私のおなかの子は、もう間もなく生まれます。知人や親戚のいない場所でお産をするのは、私たち二人にとってはとてもつらいことです。家に帰りましょうよ。」しかし彼は、「もし今私が行けば、命がない」と考えて、「今日は行く、明日は行く」と言いながら、一日また一日と空しく過ごしていました。彼女は思案しました、「このバカ者は、自分が犯した過ちを恐れて思いきって行くことができないのだ。世の中で両親というのは絶対に我が子を心配するもの、この人が行こうが行くまいが、私は行くことにしよう」と。