2012年5月31日木曜日

伝道者の書4章 三つよりの糸は切れにくい


 伝道者の書4章 三つよりの糸は切れにくい

三つよりの糸は切りにくい

人と人がつながり、その中に一致がある時、強力な力を発揮することが出来ます。神様は、私達のために助ける手として妻を与え、また、同労者を備えてくださいます。人の出入りや人の移動は、神様の御手にあります。

人を止めさせるための努力より、神様の働きを楽しむ方が良いと思います。

2012年5月19日土曜日

黙翁日録: 2008/11


昨日の石碑の傍にある説明用看板。中身は下記。

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「永禄12年(1269年)に織田信長が、第15代将軍・足利義昭の将軍座所(居城)として、この石碑を中心に、約390メートル四方の敷地にほぼ70日間の短期間で、二重の堀や三重の「天守」を備えた堅固な城を築いた。周辺からは金箔瓦も発掘されており、急ごしらえにしては、四方に石垣を高く築き、内装は金銀をちりばめ、庭は泉水・築山が構えられた豪華な城郭であったと推測される。(ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスの記録等より) その後、信長は旧二条城から義昭を追放し、東宮誠仁親王を迎え入れ、城は「二条御所」として使われていたが、室町幕府の滅亡に伴い廃城となった。天正4年(1576年)に旧二条城は解体され、安土城築城に際し建築資材とし て再利用された。尚、現在の二条城は、徳川家康によって上洛の際の居館として慶長7年(1602年)に築かれた。

 所在地 : 京都市上京区烏丸下立売

 築城者 : 織田信長

 形  式 : 平城

 築城年 : 1569年(永禄12年)」

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■1871年3月18日 パリ・コミューンの1日      「未完の黙翁年表」より


・政府軍の奇襲失敗、民衆蜂起。ティエール、ヴェルサイユへ逃亡。2将軍銃殺。午後10時30分、市庁舎占拠。

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[計画]

①シュビエル師団はルコント・パテュエル2旅団におりモンマルトルの丘を制し大砲を奪回。
②ファロン師団はベルヴィルに向かい、ビュット・ショーモンにラ・マリューズ旅団を派遣。
③モードゥイ師団はウォルフ旅団をバスティーユに、アンリオン旅団をテュイルリーとリュクサンプールに派遣。
④予備軍としてポシェ旅団が廃兵院と陸軍士官学校に向かい、そこに駐留。
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 パリの大砲は17地点に据えられ、有名 な大砲は、パリを見下す高台に集められている。ビュット・モンマルトル(新型大砲91門など計171門)。ビュット・ショーモン(旧型12口径22門・新型7口径24門など計52門)。フランドル街ラ・マルセイエーズ公会堂(城壁から持って来た旧型31門)。ラ・シャベル(旧型22門など計43門)。クリシー(大砲8門など計10門)。ベルヴィル(改装砲6門など計22門)。メニルモンタン(新型12門など計70門)。総計417門。
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・夜の初め、ある将軍が、シャトー・ドーの兵営で、第120戦列歩兵隊第3大隊を兵営に残し兵営を防備態勢におくこと、第1大隊にタンプル場末町を、第2大隊にロワイヤル広場の占領を命令。また、一切の不穏集団には無警告で発砲せよと指示(第120戦列歩兵隊は国民衛兵が眼前に現われる時、潰走)。
同じ頃、1人の特 務曹長が、モンマルトルの衛兵哨所に立ち寄り、区長クレマンソーの偽の撤退命令を伝令、人々は従い、モンマルトルには7人とムーラン・ド・ラ・ギャレットにいる僅かな分遣隊が残るのみ。
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・0時~午前2時、ルーヴル宮で政府軍の作戦会議。目的は、大砲奪取、衛兵の武装解除、委員会占領、メンバー逮捕、家宅捜査。
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[パリ軍最高司令官ヴィノワの計画]

モンマルトル攻撃は2旅団(パチュレル、ルコント両将軍)からなるシュビエル師団が担当。
①パチュレル旅団は、猟歩兵1大隊、第17大隊(第76戦列歩兵2大隊)、第88歩兵部隊3大隊(猟歩兵1大隊、第18大隊)、憲兵隊半中隊、工兵半中隊、武装警官を包含し、クリシー広場~サントゥアン大通り~マルカデ街~ソール街~モンマルトル墓地~ノルヴァン街を~� ��ーラン・ド・ラ・ギャレット公園へ向う。この間、1大隊がビェットの下、北と西側に布陣し、猟歩兵第17大隊は、シュビエル師団の将軍の指揮下におかれ、クリシー大通りとピガール広場に、憲兵と大砲2門をもって予備として残される。
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②ルコント将軍は、第88歩兵部隊2大隊、警官、憲兵、工兵半中隊と共にモン・スニ街を通り、ビュット・モンマルトルに登り、丘の東部を占領すべく、ロシュシュアール大通りに予備軍(猟歩兵第18大隊、砲兵1中隊、第88歩兵部隊第3大隊)を温存する。
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 歩兵部隊の大部分は、この月2日にル・アーヴル発。マラコフ大通り、エトワール広場、トロカデロ広場の付近に野営。パリが極めて平穏なのをみて、何人かの兵士は流布されていた噂に憤慨。17日夕方、何人かの兵士・下士官はが� ��会(例えばナシオン街のローエル酒場)に出席し、住民と親しくなり、以降、最も精力的な兵士達が、人民に発砲しないと公然と誓うに至る。従って、武装警官を部隊に配置する必要が生じる。
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[パリ全部の軍事占領計画]

モンマルトル(陣地の威力、大砲数、地区委員会や住民活動が活発さから特に重要地点)攻撃配置は、全労働者居住地区・戦略的地点(保塁、兵器廠、大通り、公共建造物)占領、パリ周辺地区住民の完全武装解除を目指す広範な計画の一部。
ファロン将軍は、ル・マリウズ将軍を指揮下におき、ベルヴィル、ビュット・ショーモンを占領、他の分遣隊はウォルフ、デロジャ、モーデュイ将軍指揮下に、バスチーユ広場、市庁舎を占領、アンリュー将軍は左岸を包囲、第135戦列歩兵は全体の予備軍と� �てリュクサンプールとパンテオンに残される。
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・0時~午前2時、政府軍作戦会議と同時刻、国民衛兵中央委員会も集会を開き、任務分担・委員会統合など組織作りを行い、新しく軍事委員会を任命、午前2時過ぎ、散会。(3時30分、国民軍中央委員会の任務分担についての会議終了、の記述もあり)
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・部隊2万はシャン・ゼリゼとコンコルド広場に集結、ラ・ぺー街~大通りへ進む。
午前2時半~3時、部隊は小分遣隊に分かれ、シュビエル師団はモンマルトルに向い、途中でマルチル街と外廻りの大通りを監視する為に榴弾砲を据え、騎兵・砲兵をビガール広場に配置。
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・午前3時~4時、将軍達は、配下の憲兵・警官とヴァサル少佐率いる市警官・パリ意兵隊に攻撃開始命ず。

 ロジェ街の中央委員会・地� ��委員会がルビック街の高みに据えた警砲は発射されず。
市警官がビュットを見下すソルフェリノ塔に近寄った時、ロジェ街委員会に配置された国民衛兵チュルパンに見つかり、彼を銃剣で打倒す(瀕死の重傷を負い、数日後没)。
襲撃者達は丘の上に出て、手薄すな哨所である第61大隊の6人を武装解除。次いで、監視委員会の置かれているロジェ街6番地に出て、そこを占拠する幾人かを捕虜としソルフェリノ塔地下室に投込む(数人は逃亡)。
この間、第18猟歩兵はプーサルグ少佐の命令下、丘上部に登り、工兵・猟歩兵は、大砲を保護する土塁、盛り土、塹壕を取壊す。
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2012年5月18日金曜日

LichtKunstLicht勝者によってドルトムントでの聖母の地下墓室の教会 - 国際プロジェクト (インテリア) 照明デザイン賞 2012


illumniは、照明デザイン賞の受賞作品を展示しています 2012 ロンドンで先週開催された. 仕事を表示するには、毎日のillumniをチェック.

19世紀から復元された教会の建物は、都市部の骨壷埋葬の儀式のために印象的な場所としての地位を表してい. リヒトクンストリヒトによって敏感な照明デザイン - 単にLED技術を実装するには - 効果的にStaab Architektenによって計画されたインテリアデザインのコンセプトを強調.

アイデアは特に新しいものではありません - これは、すでに名前で明らかになる. 初期キリスト教時代の "columbariumの複数形は"のようなdovecotのであった, 半または完全に地下のつぼの墓. 新しい都市の墓地の成長不足、何より​​もコスト圧力が骨壷埋葬のために新しい場所を確立するためにドイツ全土市当局の原因となっている. 従って, それはほとんど使われない都市のインナーシティの教会を採用することが理想的. いくつかのドイツの都市で, として現在ドルトムントに, 元教会の建物は、骨壷の墓地のために改装されています. ネオゴシック様式のLiebfrauen教会の建物, に建てられた 1883, 少数の訪問者をよりよい日を見て登録していた. パーダーボルンの大司教と協力してドルトムントの市政は、urn埋葬地への変換の考え方を推進してきました. 2年間の改装期間を経て埋葬教会は月に完了しました 2011.

遮るもののない開放

2012年5月16日水曜日

Fumi's Lovely Days:人は何のために生きるか?


さて、2日目まで書きました。
私は、特にこのカテゴリを書くにあたっては、祈ってから書くようにしています。
「神様、どうぞ私のうちに働いて下さい。今日も5つの目的の本を、ここに来て下さる方々と分かち合いたいと思います。どうぞ本当に大切な箇所を探すことができますように。」と。
今日もリック・ウォレン著の『人生を導く5つの目的』よりを分かち合いましょうね。

---どんな人でも、何かに動かされて生きているのです。
たいていの辞書は、ドライブという動詞を「導く、コントロールする、指示を与える」と定義しています。あなたがこの言葉(ドライブ)を使う時、たとえば車を運転するとか、釘を打つとか、ゴルフボールを打つと言う時、あなたはそれを導き、コントロールし、あるいはそれに指示を与えているわけです。あなたの人生の原動力となっているものは何でしょうか。

・・・今のあなたは、直面している問題、プレッシャー、あるいは何かの締め切りに追い立てられているかもしれません。あるいは、痛ましい記憶、恐れ、無意識のうちに形成されてきた信念に駆り立てられて生きているのかもしれません。あなたの人生を動かしているものには、幾つもの環境、価値観、感情があります。最も一般的は5つのも のを挙げてみましょう。

1●多くの人は罪責感に駆り立てられて生きている

彼らは後悔から逃れ、またその恥ずかしさを隠すために人生の大半を費やしています。罪意識に駆り立てられている人たちは、特定の思い出に支配されています。彼らは過去の出来事に自分の未来をコントロールさせてしまっているのです。自分の成功を台無しにすることで、無意識のうちに自分に罰を与えてしまうのです。

・・・私達は皆、自分の過去と無縁ではいられませんが、その虜になる必要はありません。
神の目的は、私たちの過去によって制限されるものではありません。・・・・そして、神はあなたの残りの生涯においても驚くべきことをしてくださるのです。

2●多くの人は怒りと憤りに駆り立てられて生きている

彼らは痛みを握り締め、決してそれを乗り越えることがありません。
赦すことによってその痛みを手放す代わりに、心の中で何度も反芻して(繰り返し考えて)しまうのです。碇に駆り立てられて生きている人たちは、「黙り込む」ことによってその怒りを心の中に蓄積させるか、「爆発させ」ることによってそれを人にぶつけてしまいます。どちらも不健全で、有効な方法ではありません。

2012年5月15日火曜日

脳の仕組みと脳内物質


1、脳の仕組み
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脳が「呼び起こす」こころ、考える知性と感じる知性

私たちの脳の中には、それぞれの個別のこころを呼び起こす三つの脳があり、それぞれが互いに交錯したり、葛藤したりしながら複雑多岐な感情を引き起こしています。
●理性的、理論的なこころ=頭の知性をつかさどる大脳新皮質というところで作り出されます。
●感じるこころ。喜びとか悲しみといった人間的なこころ(feeling)や、例えば性欲などの本能的な欲求に根ざした感情(emotion)=これは大脳の周辺部にある大脳辺緑系の古皮質というところで呼び起こされます。個々で呼び起こされる感情は、いつもなんらかの行動をはらんでいるため、特に情動という言い方をして感情(feelin g)と区別しています。
●本能的な行動に根ざしたこころ=大脳辺緑系の旧皮質というところで呼び出されます。自分の縄張りや安全の感覚、生活パターンや習性や日常動作などの本能的な行動に根ざしたものです。
☆私たちの脳はこの三つの脳が一体となっていることを理解する必要があります。
☆私たちは、外部からの刺激に対して、いつも頭で考えて行動を決めていると思い込んでいます。ところが、得体の知れないものを感じたり、見たりしたとき、不安や恐怖のあまり反射的に身構えたり、その場から全力疾走で逃げ出そうという衝動に駆られることが少なくありません。頭で考えて正体を認知するのは、その次です。恐怖や不安は、いつも行動をはらんでいます。それが情動です。
☆情動には、恐怖や不� ��のほかに、快感、不快感、怒りなどがあります。

■本能的な欲求こそが、私たちを仕事や遊びに駆り立てる意欲の源にほかなりません。まさに気力、活力の源なのです。また、恋愛や結婚、性愛の源でもあります。情動は生きていく上で基本的に必要な欲求に根ざしているものだけに、喜びや悲しみといった人間的な感情を圧倒して、その人を衝動的な行動へと突き動かしてしまいます。
このような感情の爆発は、神経がハイジャックされるために起こります。大脳辺緑系の一部が緊急事態を宣言し、脳全体を制圧してしまうのです。辺緑脳によるハイジャックは瞬間的に、思考をつかさどる大脳新皮質が働きはじめるよりも一瞬早く発生します。そのため、大脳新皮質は事の是非を判断するどころか、全体の状況を把握する暇� �えなく、こうしたハイジャックが終わった後に本人にも何が起こったのかよく分からないというのが特徴的です。

●人間の心は言葉という形とは違います。扁桃核の言葉にならない情動こそ心の本質です。人間の心と心が通じるとは、この扁桃核がもっているその人の個性あるいは本質に共感することです。それは言葉としての共感ではなく、情動ととしての共感です。大脳新皮質からでる言葉は知識としての言葉であり、心がこもっているという理解は扁桃核の感覚が共感することです。それはその人の体全体から相手に伝わるものです。言葉としての形としてではなく、表情やまたは言葉にならぬ雰囲気や「霊」と表現できるような、現代的表現では空気感といったもので伝わるものです。

大脳新皮質の知的心は扁桃 核や大脳辺緑系の情動を制御し、感情の暴走を止め、理性的な行動を取らせ、物質的現実的な利益をもたらします。しかし、それは心が通じるという、人間の心の本能欲求を満たすものではありません。また愛情が伝わるものでもありません。しかし、大脳新皮質のコミュニケーションは実際的なことや、物質的な仕事に関して、円滑に処理され、仕事をするために大切なことです。ここに扁桃核や大脳辺緑系の言葉によらない情動の情報の伝達や共感、共有が加わることで、その人間関係の質とその深さはより高く深いものとなります。そしてそれが文化の広さ大きさ深さとなります。そしてそれが社会のなかでどれだけ互いに共有できるかで社会の文化基準や、社会感情、環境の深さ広さとなります。つまり、大脳新皮質、辺緑系、扁� ��核それぞれの関連性と相関性がその人の人格の広さ深さとなります。そしてそれを訓練し、成長させ学習することが可能です。それは大脳新皮質の情報を言語に変換して記憶する機能が大役を果たします。扁桃核の言葉にならない情動の情報を言葉に変換して認識し、それを言葉によって制御し、そこから得た感情情報を辺緑系や扁桃核に再入力し、情動記憶をより肯定的プラス反応として記憶庫に入れ替えることができます。それは認知療法とも言えるものですが、誰でも簡単に行えるセルフサポートです。特に心の病を抱える人も、よくその仕組みを理解することで、自分を圧倒してしまう恐れや不安という情動を、言葉で分解し、それに肯定的な言葉をプラスして変性させ、より行動的積極的情動反応をもたらす情動記憶として扁� �核や大脳辺緑系に記憶されます。
具体的には、言葉にならない、意味不明の不安感、それを言葉に置き換えてみて、パズルをはずすようにばらばらにしてみます。そしてそれにそれを肯定的な思考に換える言葉をつけるのです。「明日が不安だ!」「明日は不安だが、今日に意識を集中させ、今日を生きよう」というふうにです。その時、参考にできる図書がたくさんあります。たとえば聖書もそれにあたります。


例え:、「その不安はどこからくるのか?」その源を突き止めます。それが孤独になる不安だとしたら、そこに大脳新皮質に学習によって記憶した、『だれもが孤独である。しかし誰もが誰かを必要とし、あなたの隣人も心の奥底では孤独であり、共感できる人を求めている。それは人間の顔の表情というものによってごまかされてはいけない、それはあなたが直感によってあなたの判断で勝手に決め付けていることだから。一言言葉をかけてみよう、孤独なのはあなただけでなく、多くの人が孤独なのだから。幸せは幸せを他に与えることから来る』このような言葉をその意味のない言葉にならない孤独感と不安感に組み込むのです。そしてそれは人の表情によって、いつも勘違いをしている自分の考え方にあるという答えに 導き、『自分の情動は真実と違っている』という結果に言葉として導き、それを『最初の他の人の印象を言葉や表情でなく、誰しもが孤独だ・・・だから愛を与えよう』という情動の印象に置き換えて、それを言葉としてではなく、感覚として辺緑系に記憶し、扁桃核の記憶庫に記録します。
実際にそのような状況に出くわしたとき、それまでなら相手の表情からすぐに自分が孤独感や不安感を抱いたのに、その学習により、孤独感や不安感の情動が出てくる前に、(新しく記憶した、その人の表情や言葉の情報によって反射的に発生する情動の変わりに)その人に幸せにしてあげたい、愛を注ぎたいという情動が先に出てくるようになります。それが認知療法です。

1、大脳新皮質
は巨大な記憶装置です。耳や目、鼻、皮膚といった感覚器官を通じて得た情報を記録して保存しています。また、この記憶を検索することによって、外部から入った情報がどういうものであるかを総合して理解します。同時に、自分の内部から湧き上がってきた感情も検索して、その感情を理解することもしています。

右脳と左脳:大脳新皮質は、左側の左半球と、右側の右半球に分かれています。
○目から入ってくる「像」の情報=右半球 
右脳に記憶されるのは直感的な記憶です。ものごとの全体をイメージとして把握したものが記憶されます。
○音やことばの情報は=左半球
左脳は言語やそれに支えられた論理といったものを記� �していて、外部から入ってきた情報を論理的に考え、結論をだすことで頭というと左脳を指すことが多い。
●この左右二つの脳は、左右を結ぶ2億個以上の神経組織が集まった脳梁を通じて、お互いにダイレクトにコミュニケーションをとることもあります。この場合、右脳は言葉によらないデータを送り、左脳はそれを言葉として処理します。

☆右脳型は「臆病」、左脳型は「楽天的」
何かを考え事をしているときの、あなた自身の姿を思い浮かべてください。ポイントは目の動きです。

考え事をしているとき、あなたの目は左を向いていますか、それとも右を向いていますか?》
これによってあなたの性格の基本的なことがわかります。
○私たちの大脳は右� �と左脳とに分かれいますが、右脳が興奮(活性化)しているときは目は左に働き、左脳が興奮(活性化)しているときは目は右に動きます。手に左利きと右利きがあるのと同じように、何か考え事をしているときに目を右上方に向けている人は左脳の活動が活発で、左上方に向けている人は、右脳の活動が活発というわけです。
○大脳新皮質には、大脳辺緑系が呼び起こす情動をコントロールする部分があります。前頭前野という部分で、ここも左右に別れています。


参考文献
○ウィスコンシン大学の心理学者リチャード・ディビットソンによれば、前頭前野の右側より左側の方が活発に動いている人は陽気な気質で、ものごとを楽天的にとらえ、人生を大いにエンジョイできます。一方、前頭前野の右側の方が活発に働いている人はネガティブでブルーな気分に陥りやい陰気な気質で、トラブルに直面すると動揺しやすいといいます。

何かを考えているとき、目が左に動く人は神経過敏な内向性の性格。こういうタイプの人は幼児期に過保護・過干渉・過支配に育てられてきた傾向があるために、恐怖心や不安を克服するチャンスを持たないまま大人になっているケースが多いです。こういった性格の人との距離を縮めるためには、できるかぎり相手の立 場に立ってものごとを考え、相手の立場に立った言動をすることがポイントです。少しでもこちらの意見を押し付けたり、支配の気配を見せたら、たちまち緊張して身もこころも閉ざしてしまうからです。
またあなた自身が過敏で内向的な性格だとすれば、自分は情動に左右されやすい性格だということをまず自覚することが大切になります。

つまり右脳の活動が活発な人は「内向的」で、不安を内側に閉じ込める傾向が強く、何事にも過敏で心身症的な症状を訴えることも多いという傾向があるというのです。
・何かを考えているとき右を向く人は数字に強く、左を向く人は人文学的分野に興味を抱く。
・右を向く人は正確で首尾一貫するようなことがらが得意で、左を向く人は自由でイメージ的なことが得意。
・右� ��向く人は、葛藤に対して積極的に行動で対処し、左を向く人は、葛藤に対して内側にこもりがちで、しばしば心身症の症状を示して、自分を守ろうとする傾向がある。
・右を向く人は、情動や情動行動を起こすことが少なく、左を向く人は嫌悪や恐怖といった情動行動を起こすことが多い。
・右を向く人は、独断的な態度が強い脅迫的人格型で、左を向く人は主観的経験と感情に集中する傾向があるヒステリー性人格型。
・右を向く人は、幸福感のようなプラスの感情や興奮で、より頻繁に眼球を右へ動かし、左を向く人は、情動的な疑問、恐怖、ストレス状況に反応して眼球を左側に動かすことが多い。

○脅迫型とヒステリー型
・脅迫型は、自分を妨害する「感情」を抑圧する強い傾向があり、ヒステ リー型は、自分を妨害するような「考え」を抑圧する強い傾向がある。
・脅迫型は、観念的な方法ですべてのことを処理する傾向がある一方、ヒステリー型は、情動面が不安定。
・脅迫型は、論理的、演算的な方法で問題を解決しようとし、ヒステリー型は、具体的な刺激に結びついた方法で問題を解決する傾向がある。

☆これらの研究報告から、右脳を良く使う人は、左脳を良く使う人より、神経が過敏で、多分に神経質な性格だということがいえるでしょう。反対に左脳をよく使う傾向のある人は、ものごとに動じることが少ない楽天家で、何事も行動的で積極的な性格だといっていいでしょう。

2012年5月13日日曜日

北風から: カルト・異端


 ローマ・カトリック教会のような巨大な組織体で、各種の機関があるのを除くなら、プロテスタントの諸教会は、教派の中でも各教会が独立しているので、なかなか教派として統一した見解を出すのに時間がかかったりします。

 教会の任務や目的は『キリストの命に従って、すべての人に福音を宣べ伝え、教会を建て、愛による奉仕をなし、これらのことによって神によって仕えることを目的とする。』(「日本福音ルーテル〇〇教会規則」各個教会規則の雛型より)であることから、各種団体を精査し、異端を特定したりすることは教会の本来の任務と目的でないことから、厳密に区分されたり、規定が示されたりしてはいません(あるのかもしれないが、信徒にはつたわってはいない。)。

 そのなかにあって、教派によっ て正統とする教会や教派もあれば、異端として退けるものもある団体として、セブンスデー・アドベンチスト教団(通称SDA)があります。

2012年5月11日金曜日

THINK/ FIELD AND NETWORK ~地域貢献・地域づくりを目指して~


FIELD AND NETWORKが目指す モチベーテッド・ソサエティ
グローバルに考え、地域で活躍

人はひとりでは生きていません。人と人とのつながりの中で、無数の物理的・精神的なものを交換することで生きています。この相互の交換関係の集積が、すなわち社会です。

しかしながら社会の複雑化・細分化によって、現代社会ではこのような相互の交換関係をなかなか実感しづらくなってきています。効率化を追い求めて機能してきた、TOP DOWN型の社会システムによる弊害と言えるでしょう。この相互の交換関係が見えない危機(= ネットワーク・クライシス )こそが、社会全体のモチベーションを低下させる根本的・潜在的問題であるとFIELD AND NETWORKは捉え、そこから解決策を見出していきます。

2012年5月10日木曜日

教理説教1  神を知る――啓示1 - 小海キリスト教会牧師所感


教理説教1  神を知る――啓示1

1コリント2:11、ローマ1:18−23 2テモテ3:15、16

2012年1月15日 小海主日礼拝

 物事を正しく知るには、「木を見て森を見ず」ということになってはならないし、また「森を見て木を見ず」ということになってもなりません。「木を見、また森を見る」ことが必要です。聖書の学び方には二通りあって、通常、聖書の各書を順々に味わって、聖書全体の教えにいたるようにという道、聖書全体を主題別に取り上げて部分にいたる道があります。いずれの方法にしても、木と森の両方を見ることをねらっています。いつもは聖書各書を連続的に解き明かすという、木から森にいたる方法をとっているのですが、年末から祈ってまいりまして、今年はこれからしばらくじっくりと聖書の教えを主題別に学んでまいりたいと願っています。森から木への道です。組織神学的な学び方ということです。

(ただし、聖書は神のことばであるという信仰のない聖書学者の考え方では、各書、あるいは各書の史料の分析にエネルギーを注いでいますから、木のみ、さらに枝のみを見て、森は見ないということになります。彼らにとって森を見ることはナンセンスなのです。)

 今後の、おおよその流れを予め申し上げておけば、<啓示、神、人間、キリスト、聖霊、教会、終末>という流れになります。今日は啓示についてです。「啓示について」では、私たちはどのようにして神様と神様のみこころを知ることができるか、神様はそのことをどのように教えてくださったのかということを学びます。

1. 神を知り、神に知られる

「2:10 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。 2:11 いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。」1コリント2:10,11

 私たちが何かを知るという場合、知る対象が二通りあります。一つは物が対象である場合で、もう一つは人格があいてである場合です。物が対象である場合には、知るのは私の側であって、物はただ一方的に知られるということになります。物が対象であるばあいには、私たちはそのものを外側から観察してみたり、重さを量ってみたり、あるいは切り刻んで顕微鏡で調べたりなどと、いろいろな方法で詳しく調べることができます。

 ところが、人格が相手であるばあいはどうでしょうか?たとえばあなたが隣人のことをもっと知りたいと思って、体重や身長を測定したり、ばらばらにして顕微鏡で調べたりしても、その隣人のことを知ることができるでしょうか。できるとしても、それはその隣人の物質としての側面を知りえただけのことで、その隣人の人格を知りえたわけではありません。人格を知るためには、ふたつのことが必要なのです。

 第一は、その人格が、自ら心と唇を開いて、その心のうちにあることを話してくださるということです。「人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。」とみことばが言うとおりです。

2012年5月8日火曜日

投げ出される命


  • 陛下の英国ご訪問
    08 5月 2012 8:00 PM | No Comments

    皇室への評価は国内より海外の方が高いのではないのかしら。 ご健康も気になりますが閣議決定により、今上陛下は来週英国へご訪問されます。 英国の王室より、格式は上だと言われます。 決して英国を卑下するわけではありませんが、英...

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  • 引き継ぐ命ですか。
    08 5月 2012 6:53 PM | No Comments

    公がこの生命をポスティングを認めるシステムを五年前から批判してきた。 81人の命がすくわれたと考えること可能かもしれないが、わたしは、納得はできない。 赤ちゃんポスト、引き継ぐ命 開設5年で計81人 熊本 生まれてきた子...

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  • アクセル・ワールド
    08 5月 2012 6:00 PM | No Comments

    現在放送中のアニメ。 1~3話までは面白いとは思わな勝ったのだけれども、4話目あたりからの展開で興味がひかれたので、録画を見直す。 黒雪姫、ハル君。どちらもなかなかいい感じだ。これを1クールでどうまとめるのか少し不安だが...

  • 2012年5月7日月曜日

    キリスト語録8:キリストが来た理由 | 布忠.com


    「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ福音書3:16)

    イエスと問答するうちにパニックになってしまった教師ニコデモ。そんな彼にイエスは、「はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証(あか)ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天からくだって来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。」と筋道をたてて説いていきます。そして、ユダヤ人なら誰もが知っている"モーセの蛇"に自分をなぞらえるのです。

    「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」

    2012年5月5日土曜日

    上野公園でみたホームレスの礼拝 - キリスト者として今を生きる - Yahoo!ブログ


    すみません。。。
    笑いながら読んでしまいました。
    >豊かな階層が多い(気がする。)。。。気がするのではなくその通りのような。。。気がします(笑
    それでいて創価学会やプロテスタントのように私財を投げてまで寄付をする人も少ないです(爆
    >裕福な家庭の奥さまで、ガーデニングなんかに精を出しながら。。。のくだり、
    STARさん。。。面白すぎます。。。
    なんだか私も情けないカトリック者ですが(^^;
    伝道ってなんでしょうかね。
    私は私自身の行き方かしら???なんて思いますがその部分から逃げているのかもしれません。

    2007/11/3(土) 午後 8:52

    あまのじゃくの仏教者は、ホームレスに説教する人は嫌いです。宗教家であっても、政治家であっても、慈善家であっても、庶民であっても、誰であってもです。そんなことをする暇があれば、黙って彼らの前に温かい食べ物かわずかなお金を落として、気づかぬふりをして去ればいい。それができなければ、そっとしておいてやれと思います。

    2007/11/3(土) 午後 9:03

    Starさん、絵より印象的な光景にぶち当たってしまいましたね。私もきっと足を止めてしまったと思います。私もうしどしさんの意見に賛成だなあ。上の飢えの上野の光景は犬にエサ与える時の、「待て」「よし」みたい。ところで本当に、ごミサ、ゴミさ、なんてマジで言ってるの?

    2007/11/3(土) 午後 9:31

    まぁ、見て見ぬ振りするよりは、まだいいとは思いますが、恩着せがましいのも何だか気持ちフィットしませんねw

    2007/11/3(土) 午後 9:32 [ zgenech ]

    ひねくれ者で、何の信仰も今のところもたない私ですが、聖書の祈りの言葉や般若心経はそらんじています。PCのヨコには仏壇もあり、毎日灯明もともし、毎年初詣にも。
    だからなんなの・・そうです。ただの気休め、かも知れません。
    宗教は むずかしい。でもまったく否定する気にはなれないです。
    伝道に歩く方は、自分ひとりが救われるのではなく 他の人もすくわれたらいい、と心から思っているということは理解できます。そのことは尊敬します

    心がすくわれること。人に寛容になれることが宗教のメリットかな。と思っています。(メリットを求めて信仰に入るわけではないでしょうけれどね)
    でも、そうじゃない宗教がらみの紛争や人殺しが多くて、日本人はスピリチュアル系に逃げているように見えます。それもなんだかなあ。

    お天道様に恥ずかしい、と言う感覚のなくなった無神論者の群れは・・・軌道を逸してしまう時を迎えないか。それは恐ろしい気もします。心の心棒がない、ぶれてしまう。そういう集団は、安易に、暴走しないかなあ。なんて考えます。

    2007/11/3(土) 午後 9:41

    starさん、こんばんわ、僕もわけあって上野のホームレスの人達と知り合う事が10年以上前にありまして、その人達と話をした事が有るのですが、毎日が生きる事で必死だとおっしゃっていました。冬の寒い日などは寒くて寝ているどころではなかったそうです。僕は宗教はよくわからないのですが、アメリカのケネデイ大統領がアメリカ史上唯一のカトリック教徒で後はみんなプロテスタントらしいのですが、なぜアメリカではカトリックの人間が大統領選挙に勝てないのかその訳もわかりませんが、日本のキリスト教会が、こうゆう困った人達を何かしら援助しているのは、大変素晴らしいことだと思います。そういえば日本の中核派などは、ホームレスの人達にパンや飲み物を配って、支持を集めているそうです。日本人の夢や希望 などが無くなって、社会が複雑になってくれば、うつ病が増えたり、自殺も増えたりします。ましてや、明日もどうなるのかもわからなければ、よけい不安になります、宗教が良いとは言いませんが、オウムや統一教会のようにカルトでなければ、宗教にも人をひきつけるものがあると思います。

    2007/11/3(土) 午後 9:46 [ s_m*k*cho ]

    前のコメントでも書きましたが、本来なら政府自民党が困った人達を助けるべきなのに、財界や金持ちのほうだけを向いており、貧乏人には生活保護も出さない、そして改正する必要も無いのに憲法9条を改正すると言って、日本が戦前のような、軍国主義に向かおうとしています。このような状態に
    なればみんな危険を感じ取って、選挙で自民党が負けるのも当然の事だと思います。ただアメリカのように宗教団体が力を持って大統領さえ動かすようになったら問題と思います。ただ日本ではそれだけの権力は宗教団体は持たないでしょう、今日は、なぜアメリカではカトリックの人間が大統領選挙に勝てないのか、考えてみたいと思います。

    2007/11/3(土) 午後 9:46 [ s_m*k*cho ]

    のりちゃん、笑ってくれてありがとう(って礼を言ってる場合か。)上品なカトリック教徒は私財を投じたりしないんですよ、で、私財を投じることに対する反感あるでしょう、世間に。実際問題、それで家庭を壊したりするし。日常生活のバランスを崩さない程度になら信仰は許容されるけど、日常生活を崩したら非難され、「カルト教団」になるんじゃないかなあ。。。で、宗教っていうのは日常生活を壊す起爆剤ですからね。でも日常生活を全く壊さない信仰ってのもなんなのかなあとは思います。

    2007/11/3(土) 午後 11:55

    うしどしさん、私がこの光景に抱いた違和感とひっかかりもそこですね。けっこう強烈な光景でした。。。

    2007/11/3(土) 午後 11:58

    2012年5月4日金曜日

    TSUTAYAのDVDのレンタルは製品発売後何日経過してから??? | OKWave


    お気付きの通り、レンタル用のDVDと販売用のDVDはパッケージの表記が異なってます。

    その他、レンタル版は特典映像が無くて特典映像の代わりに他作品の予告編が入っている、スキップ出来ない予告編を見ないと本編が始まらない、レンタル版と販売版は卸値が違うなど、まったく違う物です。

    それに、販売版はレンタル禁止になっていて、販売版をレンタルするとメーカーからペナルティを食らう筈です。

    2012年5月2日水曜日

    エラガバルス・ヘリオガバルス


    エラガバルス  203−222.3.11 ★★★★★
    インペラトル・マルクス・アウレリウス・アントニヌス・ピウス・フェリクス・アウグストゥス・プロコンスル

    エラガバルスもしくはヘリオガバルス、またはサルダナパルスという名で呼ばれるこのローマ皇帝が一般的にどの程度知られているのか定かではありませんが、知ってる人は知っている、歴代ローマ皇帝中一番の色物的存在といっていいでしょう。
    エラガバルスは14歳で皇帝になり、様々な猟奇的ともいえる逸話を残してわずか18歳で周囲から見放され、体を切り刻まれてテヴェレ河に捨てられました。

    彼は世襲の役職であるエメサ(シリア)の神官をしている時に、祖母のユリア・マエサに担ぎ出され皇帝の座に着きました。
    祖母ユリア・マエサはカラカラの母ユリア・ドムナの妹にあたります。彼女はカラカラを殺して皇帝になったマクリヌスを追う為に、エラガバルスはじつはカラカラの庶子であったという噂 を流し、軍人に人気があったカラカラの威光を利用し、軍を掌握してマクリヌス追討に成功しました。
    カラカラ→エラガバルス→アレクサンデル・セウェルスとシリア系の母を持つ皇帝が繋がったことになります。

    こうしてシリア人のエラガバルス、本名ウィリウス・アウィトゥス・バシアヌスは「無敵の太陽神エラガバルス」の司祭長でありながらローマ皇帝となったのです。
    皇帝即位の約一年後、初めてローマ入りしたエラガバルスをローマ市民は驚愕をもって迎えました。金糸銀糸で織ったきらびやかなシリア風の長い服と輝く宝石類に身を飾り立てたエラガバルスと共に、エメサの神殿から運んできたご神体の「黒い石」がローマ入りしたのです。

    2012年5月1日火曜日

    ヴェールの内側から : ムスリム新聞


    なぜ、ムスリマ(女性イスラーム教徒)がヒジャーブ(ヴェール)をかぶるのか、といった疑問は多くの方がお持ちだと思います。伝統や風習の一部としてかぶる人、周囲の目を気にしてかぶる人、宗教の実践としてかぶる人、実際にはいろいろな人がいることも確かです。
     ここでは、ヴェールをかぶることに納得した著者の率直な感想が述べられます。


    ヴェールの内側から
    中田香織著

     私がムスリムになった当時、フランスでは、校内でのヴェール着用の是非が世論をにぎわしていた。宗教シンボルであるヴェールの着用は宗教的中立を掲げる公立学校の方針に反する、というのが大方の主張だった。宗教的に中立の立場を取るからこそ信仰の自由は尊重すべきであろうし、授業に差し障りがあることならともかく、単なる服装の問題になにをそう大袈裟に騒ぐか、と私には理解しかねたが、服装の問題だからこそ「目障り」だったのだろう。失業率の増加、治安の悪化とからんだアラブ人移民労働者問題にフランス人がナーバスになっている証拠に違いなかった。

     一方、アラブ諸国でも植民地時代の西洋化に対する反動から若い世代が再びヴェールを被り出していた。イスラームの後進性の象徴とみなされてきた女性のヴェールは、近代のアラブ諸国への西欧文化の流入によって、一時、いずれ廃れる運命にあるものと見えたが、今また急速に復活の兆しを見せている。こうしたヴェール復活に象徴されるイスラーム復興の動きは、一般には植民地化によって引き裂かれたアイデンティティーと経済的立ち遅れによって傷つけられた自尊心を取り戻すための試みと解釈される。

     アラブ人ムスリムのイスラーム固執は、おそらく一般的日本人の目には、伝統に固執する保守主義か感情的なアンチ西欧主義の現れとしか写らないに違いない。明治の日本人が西欧文化の流入に大いに反発し、着物から洋装への移行にも抵抗を示したのとあまり変わりない現象だと見ているのではないだろうか。人は一般に保守的な傾向を持ち、新しいものには善し悪しに関係なく反発を覚えるものである。

     ムスリム女性が抑圧の象徴であるヴェールに固執するのも、彼女ら自身が伝統に捕らわれ抑圧の事実に目覚めていないからだと考えられる。女性の解放、自立という時代の流れがいずれムスリム女性の許に届いたとき、彼女らもヴェールを取るだろう、などという手前勝手な予測がなされたりする。

     こうした見方がなされるのは、ムスリムにとってイスラームの教えは普遍的であり、時代の流れによって変わるものではないということが理解されていないためと、世俗主義、折衷主義的な宗教が氾濫するあまりムスリムのように生活の中心に信仰を据える生き方が信じられなくなっているためだろう。が、「進歩的」世俗主義者の予測に反して、イスラームを真の宗教と認め、ヴェールを被る女性は減少の傾向にあるどころか、国籍を越えて世界中のいたるところで増えている。私はほんのその一例にすぎない。

     ボーン・ムスリムと違って、私にはヴェールによって守らなければならない国も伝統も民族的アイデンティティーもない。私にとってヴェールは、社会的、政治的意味は持ちようがなく、私がヴェールを被るのは純粋に宗教的動機によるものでしかない。

     確かに、外から眺めたヴェールはとらえがたい異物である。女性の髪を隠すだけでなく、不透明な意味を隠し持つように見える。その不透明さこそが外の人間を不安にさせるのだろう。外からは決してヴェールの内側は見えないのである。

     私は90年冬にパリで入信して以来、ずっとヴェールをつけている。ヴェールといっても国によって、あるいは宗教意識の違いによって様々な形があり、私のヴェールも環境と意識の変化によってこの2年間に4段階に変化した。フランスでは服の色と揃えたスカーフをふんわりと被り首にくるくると巻き付けていたからファッションと見えたかもしれない。サウディアラビアに住む現在は、頭の先から足の先まで真っ黒、目も隠し、これ以上はもう何も隠しようのない格好をしている。ヴェールと称されるものの一番単純なものから一番極端なものまでを経験したことになる。

     私にとってヴェールがなにを意味するのか、ヴェールの内側からなにが見えるのかをここで話そうと思うのは、これまでヴェールについて書かれてきた多くのものが常に外からの視点を取っていることに不満があるからだ。実は、ヴェールには中からでなければ見えて来ないものがあるのである。

     2年前、入信した当時にさかのぼってみよう。入信を決意した時の私は、ともかくムスリムになりたい、という気持ちが先行し、1日5回の礼拝やヴェールの着用については深く考えていなかった。深く考え出したら入信の決意が揺らぐような気がして、あえて考えまいとしていたのかもしれない。なにしろ、1か月前にパリのモスクを訪れるまではイスラームとはまる無縁の生活をしていた私である。礼拝やヴェールになじみがなくても無理はなかった。礼拝する自分、ヴェールを被った自分など想像しにくかった。ただ、長いこと捜し求めていた真理にやっとたどり着いた、という思いだけは確かで、それがそうした先の不安を不安とも思わせなかった。やはり1つの奇跡が起こったのだろう、アッラーフクバル。