教会の任務や目的は『キリストの命に従って、すべての人に福音を宣べ伝え、教会を建て、愛による奉仕をなし、これらのことによって神によって仕えることを目的とする。』(「日本福音ルーテル〇〇教会規則」各個教会規則の雛型より)であることから、各種団体を精査し、異端を特定したりすることは教会の本来の任務と目的でないことから、厳密に区分されたり、規定が示されたりしてはいません(あるのかもしれないが、信徒にはつたわってはいない。)。
そのなかにあって、教派によっ て正統とする教会や教派もあれば、異端として退けるものもある団体として、セブンスデー・アドベンチスト教団(通称SDA)があります。
モハメドアリ、スキル、意志
わたしは所属教会の牧師に訊ねたところ、「一応教会では正統の中に分類しています。しかし、異端と正統の境界にあり、ぎりぎり正統の中にとどまっている感じです。」との説明を受けました。
彼らのパンフレットには「聖書主義に立つプロテスタントの教会です。」(『共に生きる』より)と書いています。教義として、三位一体を受け入れていますが、他教会の三位一体とは若干違い、『ミカエルというのはキリストのことで』あるとしています(預言の声聖書講座第二部第五課)。ミカエルの天使長(大いなる君、天使の長)という意味は、天使の仲間の長ではなく、天使をすべて司る長と解釈しているそうです。そして三位一体ですから、神の御� ��であり、神でもあるため、イエス=ミカエルは被造物ではないとしています。
"フォールズチャーチ警察署長マレー"
しかし、ダニエル書で大天使長ミカエルと戦った、ペルシャの国の天使長も、ギリシアの国の天使長も、同じヘブライ語Sarが使われていて、特に区別はされていません。また彼らの言うようにミカエルがキリストであるのなら、これらの天使長は、神と闘ったことになり、神の全能性に疑問が起こるような気がします。
彼らは信仰義認の立場を表明していますが、彼らの名前が示すように土曜日の安息日を拘束力のあるものとしています。律法を二つに分け、モーセの律法を礼典律とし、十誡を道徳律とし、礼典律は廃止されたが道徳律は依然として拘束力があるとしています。
このことについて、「ギリシャ語辞典」や「逆引きギリシャ語辞典」(山本書店刊、現在は教文館より出ています。)でおなじみの岩隈直氏が出したセブンスデー教会からの脱会記とその教えの誤りについて述べた『律法的信仰より恩寵的信仰へ』(昭和41年発行)に詳しく述べられていますし、キリスト改革派ラジオ伝道部発行の石井正治郎著『キリスト教の安息日(第七から第一へ)』なんかも参考になります。
彼らの終末論を見てゆくと、この律法主義が隠れていることが見て取れます。キリストは1884年に天の聖所に目に見えない形で臨在された時、キリストは天の聖所において調査審判の働きをされています。そしてこの調査審判は、天の聖所において、だれの罪が覆われて いるか、だれが永遠の生命によみがえるか、だれが生きている者のうちから天に挙げられるかを決定するもので、安息日を守っていることが判断の基準となっています(「セブンスデー・アドベンチスト教理の大要」参照)。
また、黙示録の獣をローマ・カトリック教会とみなし、安息日の偽物である日曜尊守を獣の刻印としてみています。
表面的にはプロテスタントかなと思ってしまいますが、彼らの教理を注意深く見てゆくのなら、おかしな点に気づいてきます。昔のようにこれらの教義は強調はされていませんが、破棄されたわけではありません。これらを果たした正統と言っていいのか、はなはだ疑問と言えます。
つづく
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