教理説教1 神を知る――啓示1
神学, 聖書講解
1コリント2:11、ローマ1:18−23 2テモテ3:15、16
2012年1月15日 小海主日礼拝
物事を正しく知るには、「木を見て森を見ず」ということになってはならないし、また「森を見て木を見ず」ということになってもなりません。「木を見、また森を見る」ことが必要です。聖書の学び方には二通りあって、通常、聖書の各書を順々に味わって、聖書全体の教えにいたるようにという道、聖書全体を主題別に取り上げて部分にいたる道があります。いずれの方法にしても、木と森の両方を見ることをねらっています。いつもは聖書各書を連続的に解き明かすという、木から森にいたる方法をとっているのですが、年末から祈ってまいりまして、今年はこれからしばらくじっくりと聖書の教えを主題別に学んでまいりたいと願っています。森から木への道です。組織神学的な学び方ということです。
(ただし、聖書は神のことばであるという信仰のない聖書学者の考え方では、各書、あるいは各書の史料の分析にエネルギーを注いでいますから、木のみ、さらに枝のみを見て、森は見ないということになります。彼らにとって森を見ることはナンセンスなのです。)
今後の、おおよその流れを予め申し上げておけば、<啓示、神、人間、キリスト、聖霊、教会、終末>という流れになります。今日は啓示についてです。「啓示について」では、私たちはどのようにして神様と神様のみこころを知ることができるか、神様はそのことをどのように教えてくださったのかということを学びます。
1. 神を知り、神に知られる
「2:10 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。 2:11 いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。」1コリント2:10,11
私たちが何かを知るという場合、知る対象が二通りあります。一つは物が対象である場合で、もう一つは人格があいてである場合です。物が対象である場合には、知るのは私の側であって、物はただ一方的に知られるということになります。物が対象であるばあいには、私たちはそのものを外側から観察してみたり、重さを量ってみたり、あるいは切り刻んで顕微鏡で調べたりなどと、いろいろな方法で詳しく調べることができます。
ところが、人格が相手であるばあいはどうでしょうか?たとえばあなたが隣人のことをもっと知りたいと思って、体重や身長を測定したり、ばらばらにして顕微鏡で調べたりしても、その隣人のことを知ることができるでしょうか。できるとしても、それはその隣人の物質としての側面を知りえただけのことで、その隣人の人格を知りえたわけではありません。人格を知るためには、ふたつのことが必要なのです。
第一は、その人格が、自ら心と唇を開いて、その心のうちにあることを話してくださるということです。「人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。」とみことばが言うとおりです。
全くビジョンが存在しない場合には、人が滅びる
人格を知るために大切な第二のことは、その人の語ることばを聞くあなた自身も相手に対して心を開き、唇を開くということです。あなたとその隣人との関係は、あなたが一方的に相手を知るだけでなく、相手もあなたのことを知るという関係です。日本語には「知り合いになる」という表現がありますが、まさにそのとおりで、私たちが誰かと人格的な関係を結ぶということは、誰かを知ると同時に誰かに知られること、まさに「知り合い」になることを意味しているのです。
真の神様は、物や法則ではなくて、生けるご人格でいらっしゃいます。ですから、私たちは神様を知ることが可能となるためには、二つのことが条件です。第一は、神様ご自身がその心を開き私たちに語りかけてくださっているということ。これを啓示もしくは開示といいます。それが聖書です。
人格である神様を知るもう一つの条件は、私たち自身もまた神様に心を開いて、そして神様にお話をして、神様に知っていただくことです。ですから、私たちは神様にお祈りをして、自分のこころのありのままを神様にお話しすること、お祈りが大切なのです。お祈りにおいていちばん大事なことは、きれいな言葉遣いではありません。正直な心で、率直にお話しすることです。教会に来始めて間もない方も、ぜひ一人になって声に出して神様にお話してみてください。心の中でだまって祈るのは、祈っているのか考えているのかわからなくなってしまいますから、声に出して祈るようにとお勧めします。
つぎの詩篇のことばを声をだして読んで、祈りはじめるといいと思います。
「 神よ。私を探り、私の心を知ってください。
私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、
私をとこしえの道に導いてください。」詩篇139:23,24
2 被造物啓示
さて、神様が私たちにご自分のことを表される啓示の方法には二通りあります。ひとつは神様が造られた被造物を通しての啓示であり、もうひとつは言葉による啓示です。伝統的には「自然啓示」という用語があるのですが、「自然natura」というのは「自ずから生じたもの」という意味のことばなので、この世界は神様がお造りになったものであるという聖書の教えから外れていますので、被造物啓示ということばを用いたいと思います。まず、被造物啓示の意義と限界について。
(1)被造物啓示の意義
被造物を通しての啓示の意義とその限界については、ローマ書1章に記されています。
「1:18 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。 1:19 それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。 1:20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」
エジプトの宗教の影響はどのようにそれらない
神様の目に見えない本性、すなわち神様の永遠の力と神性は、被造物によって知られるのだとあります。この宇宙全体の動きが見事に組み合わせられて、この地球に私たちが生きることができていることを思えば、創造主の知恵のすばらしさがわかろうというものです。生物がこの地球上に生きるためには、適度に太陽光線が季節に応じて注がれる必要があります。まずこの地球が自転していることによって、地球は片面だけが砂漠で、片面は凍りついた闇とならずにすんでいます。さらに地軸が傾いて公転していることによって、地球には春夏秋冬が訪れ、地表の広い面積に生物が住むことができます。地球には大気が存在するので、紫外線などの有害な宇宙線がシャットアウトされています。また地球には不思議な水という物質� ��あることによって、生命は育まれます。動物と植物が互いに活かしあう関係にあることもみなさんご存知でしょう。動物は植物を食べて生きていますが、植物もまた動物の出す二酸化炭素と太陽光と水とを合成することによって、光合成を行って生きています。生物のからだの分子というミクロのレベルからマクロの宇宙大レベルまで、みごとに調和して私たちは生かされているのですね。驚嘆すべき創造主の知恵です。
自動車のボンネットをあけて、エンジンやさまざまな部品を見て、これが偶然できたとは誰も考えないでしょう。自動車はだいたい2万点ないし3万点の部品からできているそうです。自動車の仕組みには設計者の知的な計画があきらかです。ですが、その自動車を発明した人間の脳は、自動車よりもはるかに複雑で、はるかに精巧に仕組まれているのです。それが偶然できるわけはありません。・・人間の知恵では及びもつかないみごとなシステムを見るならば、創造主が存在していらっしゃることは明白なことであって、これらを見ながら「私は創造主がいることを知らなかった」などと言う人々は、終わりの裁きのときに「弁解の余地はない」のです。
(2)被造物啓示の限界
しかし、被造物を通しての啓示には二つの限界があります。第一の限界は、被造物を通しての啓示だけでは、かえって、その被造物のすばらしさに驚嘆するあまり、しばしば被造物自体を神々のように祭り上げてしまうということです。
「1:21 それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。 1:22 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、 1:23 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」(ローマ1:21−23)
星空を見上げたメソポタミアの古代人たちは、その星の美しさに心を奪われて星を神々にまつりあげました。エジプトや日本では太陽を神とあがめるようになりました。また古代エジプト人はナイル川を神とあがめました。インド人たちはワニ(クムビーラ)も神としてあがめていますし、それを輸入した日本ではこれに金毘羅神宮にまつっています。また、東郷神宮は東郷平八郎将軍を、乃木神社は乃木将軍を、というふうにさまざまな人間を神々としてあがめています。信州では、巨大なもみの木を神として崇める御柱祭りが行われます。さきの戦争が終わるまでは、日本人は生きている天皇を神としてあがめました。これが被造物啓示の限界のひとつです。被造物啓示だけでは、人は創造主を正しく知ることができず、人は神� ��被造物を神ととりちがえてしまいがちなのです。
太陽も、星も、ワニも、ナイル川も、乃木希典さんも、東郷さんも、もみの木も、みんな創造主の作品としてすばらしいものです。しかし、それらは決してあがめるべき神々ではありません。あがめるべきは、ただ創造主である神のみです。
なぜ、被造物崇拝が起こってしまうのでしょうか。 被造物啓示というのは、いわばジェスチャーゲームみたいなものと言えばいいでしょう。お題が渡されて、そのメッセージを伝えようとして、いろいろなしぐさをして見せるのですが、なかなかわかってもらえず、とんでもない読み違いがされてしまうのを面白がる、あのゲームです。神様の作品である、この世界のいろいろなものを眺めても、それだけでは人間は正しくメッセージを受け取ることができないのですね。
被造物啓示の第二の限界は、かりに被造物を通して、世界には確かに創造主がいるのだと知ることができた人も、その創造主の前に自分がどのようにして救われるのかということはわからないということです。
古代ギリシャでもほとんどの人々が被造物を崇拝するという過ちに陥っていましたが、哲学者アリストテレスは、被造物を観察し、冷静に思索して、第一の原因である神が存在するという結論にまでいたりました。また、人間のなかには自分ではどうにもならない悪(アクラシア)があるということも認めてさえいます。たいしたものですね。けれども、アリストテレスにも神の前にその悪からどうやって救われるのかということはわかりませんでした。やはり被造物をとおしての啓示には限界があるのです。
3 みことば啓示
では、私たちはどのようにして被造物を神々と崇めるのではなく、創造主こそ礼拝すべきお方であるということを知り、かつ、創造主の前に自分のありのままの姿を知り、創造主の前にどのようにして救われるのかを知ることができるでしょうか?それは、創造主ご自身が私たち人間に理解できることばをもって、ご自分を表してくださることによって、です。みことばによる啓示が必要なのです。そして、ありがたいことに、事実、神様は人間にわかることばでもって啓示してくださいました。
「3:15 また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。 3:16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(2テモテ3:15,16)
(1)聖書の霊感・・・聖書の多様性と統一性
聖書は旧約聖書39巻、新約聖書27巻、合計66巻ありますが、このすべてが神のことばなのです。66巻を記した聖書記者たちはおよそ40人ほどであり、ある人は王、ある人は学者、ある人は医者、ある人は農夫、ある人は漁師とさまざまな職業の人々でしたし、置かれた環境もちがいました。ですから、文体も書かれた時代も紀元前1500年くらいから紀元後100年くらいというのですから、1600年間ほどかかって完成されたのです。
けれども、読めば読むほど不思議なことに、聖書は全体的に調和を保っていることがわかります。聖書のある箇所でよく意味がわからなくても、ほかの書と照らし合わせるとよくわかるということがしばしばあります。聖書は、豊かな多様性がありながら、見事な統一性を保っていて、一冊の書となっているのです。それはなぜかといえば、聖書はすべて、ただお一人の神の御霊の働きによって動かされた聖書記者たちによって記されたからなのです。これを聖書の霊感といいます。
この66巻の書物は、それぞれが成立したときから、神の民によって神の言葉として尊ばれてきました。旧約聖書39巻は紀元前400年の預言者マラキの書によって完成していたのですが、イエス様ご自身、旧約聖書について次のようにおっしゃっています。
「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」(マタイ5:18)
新約の時代の教会は、この旧約聖書と同等の権威あるものとして、新約の各書を重んじていました。ペテロの手紙第二3章15、16節
「3:15 また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。 3:16 その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。」
ここでいう「聖書」はもちろん旧約聖書を意味していますが、その旧約聖書とパウロの書いた書簡が同等のものとして扱われていることがわかります。イエス様が旧約聖書を神の権威ある書としてお認めになり、使徒の時代からその旧約聖書と新約聖書が同等の権威ある書として読まれていたのです。
(2)聖書の主題
では、この分厚い66巻からなる聖書の主題はなんなのか。それは「キリスト・イエスに対する信仰による救い」であるとテモテの手紙第一3章15節は教えています。聖書にはいろいろさまざまなことが記されています。考古学者たちは、聖書に出てくる記事をたどってオリエント世界の地面を掘り返してさまざまな発見をしています。そういう意味で考古学的資料として聖書は一級品ですが、しかし、聖書の目的はそんなところにはありません。また、文学者たちはしばしば聖書を引用したり、聖書がわからなければ英米文学はわからないといって、学生たちに聖書を読ませたりします。けれども、聖書の目的は英米文学の参考書ではありません。
聖書の主題、聖書の目的は「キリスト・イエスに対する信仰による救いを得させること」にあるのです。新約聖書はもちろんのことですが、旧約聖書においてもそうです。旧約聖書・新約聖書を照らし合わせて読みますと、万物の創造のときから、キリストにある創造と人類の救いについて教えられています。出エジプト記、レビ記などの儀式律法におけるさまざまないけにえは、キリストの十字架による罪のあがないを指差していることがわかります。 また、旧約聖書の預言者たちは、堕落したイスラエルに悔い改めを迫り、かつ、来るべきキリストを予言していました。
結び
神は、被造物を通しての啓示だけでは、私たちが正しく神様を知ることができないことをご存知なので、聖書によってご自分とそのみこころを明らかにしてくださいました。その聖書が、全体を通して主題的に教えていることは、イエス・キリストこそ私たちの救い主であるということなのです。
最初に申しましたように、神は生けるご人格でいらっしゃいます。その生けるご人格が聖書をとおして私たちにイエス・キリストこそまことの救い主であると語ってくださっているのです。私たちは、祈りをもって、この神様に応答をして生きてまいりましょう。
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