2012年3月24日土曜日

「 セラピー&ヒーリング」カテゴリ一覧|卵の中のKI☆MI


 2010-11-21

 最近また『読めシグナル』がずっと前から来ていた本を買った。

 チャック・スペザーノ著の『傷つくならば、それは「愛」ではない』だ。

 『読め読めシグナル』の特徴は、いったん忘れてもずっと気になるということで、僕も今年の2月とかに書店で見かけて読んですごく良さそうな本だと思ったけど買わなかった。でもそれから結構ずっと頭の片隅で「ワタシヲカッテ・・・」と言い続けるので今年が終わる前に読んでおくことにした。

 全部読んでないけどとても深い洞察によって書かれているということがわかる本で、パートナーとの関係の深め方や、危機の乗り越え方、自分のトラウマの癒し方、人との付き合い方などおよそ対人関係や、愛情にまつわることの知恵がぎっしり詰まっている感じだ。今日読んで� �白かったチャプターを二つほど紹介してみる。


 23日
 許せなかった両親の行動を、今度はあなたがするようになる。

 わたしたちが両親を批判したときに、心の奥深いところでは自分を批判したのです。すると私達は、次のどちらかの反応をします。ひとつは、否定した両親のふるまいと同じように自分も行動して、両親がなぜそうしたふるまいに、もともと駆り立てられたのかを理解しようとします。
 もうひとつは、両親のふるまいをつぐなうために、まったく逆の行動をとります。両親に対する批判から、それに対抗する犠牲的な役割を生き、大人になってからは自分の子供やパートナーの犠牲になります。そして皮肉にも、結局は両親を拒絶したその部分に自分もまた、とらわれてしまうのです。

 ■あなたは両親のどこを拒絶したのでしょうか。

 あなたは何か両親と同じような行動をしていますか。それとも逆のふるまいをしているでしょうか。正しいことをしているはずなのに、何かの「役割」から行動していて、何も受け取れずにいるのではありませんか。そのままだと、いずれ燃え尽きてしまいます。両親の状況を理解し、許そうとすることで、あなたも両親も自由になります。神の愛の 助けを借りて両親を許しましょう。心の底から、こう言ってみましょう。

 「お母さん、神の愛の中で私はあなたを許します。
  お父さん、神の愛の中で私はあなたを許します

 8日

 パートナーをコントロールすればするほど、つまらない人になっていく

 つきあい始めたばかりの頃、私達はパートナーをものすごく魅力的に感じて、ぞくぞくしたり、ワクワクしたりします。ところがだんだん付き合いが長くなるに連れて、かつてワクワクしたことが、かえって悩みの種になってきます。その人の魅力的な部分は、ほかの誰かとではなく、自分だけと分かち合って欲しいからです。ところがもちろん、そんなわけにはいきません。
 
 そこでパートナーをコントロールして、自分が魅力に感じたまさにその部分を、なんとか封じ込めてしまおうとします。しかし、どこかひとつ魅力を封じ込めてしまうと、やがては相手のありとあらゆるところを封じ込めてしまうことになります。

相手をコントロールするのをやめて、パートナーが魅力的であることを受け入れようとすれば、たぶんあなたの内面はかき乱され、恐れがわきあがってくることでしょう。こうしたことは、ほんのちょっとしたことでも脅威に感じてしまうものです。

 この恐れをすすんで感じて見ましょう。なぜならその部分こそ、ワクワク感を呼び戻してくれるところだからです。あまりにこわくなったら、そのことを相手に分かち合いましょう。パートナーを封じ込めようとし� ��ければ、こうしたコミュニケーションから癒しが生まれます。

 ■今日は、パートナーに対するコントロールを少しづつやめてみましょう。

 「あなたを失うのではないか」という恐れを伝えたり、「あなたの才能にじつは恐れを抱いていた」と伝えるのに、今がちょうどいいタイミングかもしれません。あなたがどのくらいパートナーの才能や価値を認め、評価しているのかをコミュニケーションしてください。
 コントロールを捨てましょう。こんなかたちで脅迫するのは、もうやめにします。ありのままの相手を受け入れて、ただその人がいてくれることのよろこびを存分に感じてください。


 両親との関係と、パートナーとの関係。
 このふたつとも多くの人が感じるジレンマを、とても簡潔に説明しているように思う。
 親からのトラウマによって同じような行動をする(DV被害者が加害者になったり)というのは、よく聴く話しだが、そのトラウマを消化しきれず、真逆の行動をするということもその人を縛ってしまう危険性があることを鋭く指摘している。どこかの評論化が「DV被害者はむしろ子供を大切にするようになるはずだ」と書いているのを読んだことがあるが、やはり外面的にはいい親であっても本人の内面でそのトラウマのエネルギーが解消していなければどこかにゆがみを生じさせてしまうものであることをこのチャプターは教えてくれる。
 だからこそそれに対応する「許し」が必要になってくる。
 
 それぞれのチャプター(365個ある)にはかならず問題に対応するミニワークがついている。
 よく出来た本だ。似たような構成のは他にもたくさんあるかもしれないが、この本は著者の洞察力がかなり深いので非常にためになる。『奇蹟のコース』の影響も大きく取り入れているようだ。『奇蹟のコース』については詳しくしらないが、なんとなく概略を読んで『生命の贈り物』とかがフィットする人なら『奇蹟のコース』もはまるのではないかと思った。

 こういった癒しの思想、そして『ラムサ』の本もそうだけど今年に出会った多くのものはもしかしたら、「癒し」と「求道?(神様の世界)」との間に橋をかけてくれるものになるかもしれない。

 僕にとって、自分自身や相方や、家族と関わる上で「癒しの思想」というのは自分とどうもきっても切れない関係にあるように思えてきた。一時はすべて神様のこ とだけを思っていればいいと思い込もうとしていたが、そうではなく僕のいるべき場所というのはどうもその中間地点のような気が最近はしている。

 真理とは何か?なんてホントは二次的なことで、自分にとっての「真実は何か」が大事なのだ。どう生きるか?
 本当に『君がどうかい?』なのだ。 
 それだけが重要。

 I先生の放っているものが強烈なので、I先生の世界にどっぷりつかっていればいいのかとも思ったことがあるが、どうも間接的に『自分で考えろ』と言われてる気がする。勝手な思い込みかもしれないが、流れ的にそういうところがあったので最近はあんまし個人的な相談とかはしていない。でもやはりエネルギーはたくさんもらっている。I先生の『存在』に敬意を払い、自分のことは自分でなるべくやりたいという気持ち。

 僕は純粋に探求者としての自分でい続けるには、あまりにも「病」とのかかわりが深い。周りの人に、また自分の心身を良い方向に持っていくためにも「癒しの思想」というのがなんらかの形でどうしても必要になってくる。もともとこういう世界に興味を持ったのも、ヒーリン グからであったし、自分自身のペースを発見したいという思いがあった。その揺り戻しがきたのが今年だった気がする。

 『ラムサ』はヒーリングの基本、自分を受け入れ愛すると言うことを再確認させてくれたし、『生命の贈り物』は許しの大切さを教えてくれた。またアイソレーションタンク体験は体感的な世界との一体感を感じさせてくれた。あとお馬さんに乗ったり、イルカさんと泳いだりもしたが、これは来年ももっと濃いレベルでやれたらうれしい。

 これらすべてに自我のレベルで完結しないという特徴があった。
 言って見れば、ある意味すべてトランスパーソナルな領域での癒しのメソッドだった。
 『ラムサ』には自分を越えたものにサレンダーするという考え方があまりないように思えたのが少し気になったが、アイソレーションタンクでお世話になったECCOのMさんも『ゆだねる』ことの重要性を語っていたのでここらへんははずせないポイントだろう。

 ある意味自分の現実の多くの部分は自分の観念が作っていると言えると思うが、すべて自分でコントロールすること自体が多くのストレスをもたらすのでやはりどこかのレベルで、サレンダー、ゆだねる、「より高い力にお任せする」という姿勢は大事になってくると思う。 
 と言う意味では『自分』にふり戻されたものの、『自分を越えたもの』なくしては成り立たないと言う点では、以前と同じスタンスを保てると思う。「癒し」と「求道?」どちらかを捨てるというのではなくふたつを融合させたい。

 自分も大好き!人も大好き!神様も大好き!となれたら最高かな。

 それらが全部同じものだ!とまではわかんなくてもね

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 2010-03-08

 アイソレーションタンクは、今知ってる限り、東京、岡山、京都に存在するようだ。

 東京は僕が行った ECCO 四谷から 南北線で10分ほど白金高輪駅から徒歩5分くらい

 岡山は心療内科の HIKARI CLINIC

  フローティングタンクとは?

 フローティングタンクQアンドA

 そして京都はフランス人の翻訳業の方が所有していて、一般の方にも解放しているらしい。 
 この体験記の方が行かれたところ

 
 畳を敷きつめた、和式の居間。低いテーブルを挟んでディヴィヤムさんと向かい合う。外国人の家にいる気がしない。タンクの中で体の回転を感じたことを言うと、
「そう、自分の体を、念じた通りの方向に向けることが出来るんだ。まるで宇宙の中にいるようにね」
嬉しそうに説明する。
「リリー博士の説によると、人間は自らのエネルギーの80パーセントを重力に抗うことに使っているそうだ。そこから自由になることが出来れば、本当に大きな力を手にすることが出来る。けれど、急に解放されたエネルギーを制御することが難しいんだ」
 アイソレーションタンクを考案したリリー博士は晩年、イルカの研究に情熱を傾けたそうだ。今の話と繋がっていそうだ。重力によるエネルギーの無駄がないから、イルカは賢い。水中では五倍の能力を発揮できる。

ディヴィヤムさんは続ける。
「私の妻は日本人なんだが……。その母親を、この前、タンクに入れたんだよ。85才でね……」
眉ひとつ動かさずに言った。冗談だと思いたい。85才のお婆ちゃんが、真っ暗なアイソレーションタンクに……。
「義母は体が完全に曲がってしまっていてね。ひとりでは入ることが出来なかった。だから、私が一緒に入ったんだ」
その光景が鮮やかに目に浮かんでしまった。
「義母はタンクから出てきた後で、『別の世界にいました』と言っていたよ」
『別の世界』を神秘体験と捉えるべきか、あるいは単に、強烈な体験だったと捉えるべきか、どちらか分からなかったため、僕は黙っていた。

この京都のタンクの住所が 真如町真如堂前であった。。。

 あ、そういうこと(・∀・) 
 
 まあーECCO行く前にこの体験記読んでたから、無意識には情報が入ってたと思うけど。

 でも初タンクの翌朝にそれがぽんと出てきたのはなんか意味が?
 僕は京都出身なので地元の家族や知人などにこのディヴィヤムさんのタンクのことを教えたほうがよいのだろうかと考えてしまった。

 一応セラピー的な世界には、ヒーリング(病から健康へ) とトランスフォーメーション(一般的な心身の健康から、気付きの深まりなどを統合した超健康へ)とふたつあると思うけど タンクはこのどちらにたいしても効果を持っていると感じる。

 しかし・・・この体験記の人めちゃ面白い。
 タンクに注意してて気付かなかったが・・・なんなんだこの体験のバリエーションは。
 ある意味天才なのではないだろうか。
 
 サマディタンク以外の体験記↓

 安部公房「箱男」に影響され段ボール箱をかぶって歩いてみた

 右翼の街宣車に乗って演説させてもらった

 バッティングセンターで審判の練習

 参りました。はは〜(*・ω・)*_ _))ペコリン

 非日常は日常にありきっすね。自分のパターンを変えればすぐに不思議世界に(笑)

 話をタンクに戻すと、これ自分で買おうと思えば輸入費用含めて150万円くらいで買えるそうだ。
 うーん、欲しい(〃*`Д´)
 車とかは興味ないが、こいつは一家に一台だ。
 しかし今貯金して買っても、木造アパートの一室の畳の上にタンクがある絵になるので、それもちょいとウケるが(笑´∀`)

 欲しい人はここから購入(いたらすごい)→サマディタンク社

 でもものづくり得意な人だったら意外と自分で作れちゃうかもなあ。
 タンクサロンは増えてくと思う。

 最後に一昨日発見したザトウクジラの動画

 

 このフォルムと存在感たまらん。
 そりゃ「ヤベ〜!」ですよね。

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 2010-03-02

 「どうだった?」と宮部さん

 「いやーひたすら気持ちよかったです。」

 「一回も出なかったんだ?」

 「はい」

 体の違和感と言うのはほぼ感じなかったし、あえて出るのが面倒くさかった。
 自分にブロックがないとは思わないんだけど。
 もしかすると回を重ねると出てくるのかもしれない。

 なかなか感想を言語化して説明するのが難しいものがある。

 重要なのはこういうイメージが浮かんだとかそっちではなく、浮遊感覚というか周囲との融合感というかそういったものだ。全体との関係性をどのように知覚してるかと言うこと・・・。
 2月17日の朝方見た夢のように、浮力感覚のインプリンティングを行いたかった。
 最低あと2,3回くらいは試してみようかと思う。

 お茶を出してもらい、映画の「アバター」や「マトリクス」シリーズの話になった。

 「(マトリクス)あれは、ほとんど現実そのものなんですよ。例えですらないと思います

 いやーしかし、このシリーズにインパクトを受けている人はこの業界の人にホント多いなあ。

 「恐怖や不安で人をコントロールして、そのエネルギーで回していくっていうやり方ですからね。」

 「とりあえずテレビは捨てたほうがいいね(・∀・)なんか今オリンピックやってるんだって?最近人に言われるまでしらなくてさあ・・・」

 僕は地デジ化されたら今のテレビは捨ててもう買わない予定(o´・∀・`o)
 地デジ対応テレビ買ったり、チューナーつけるんやったら他のもの買いたい。
 すっきりしそうだ。
 あるとついつけちゃうからなあ。

 まーケーブルテレビは魅力的だけど・・・

 「2012年って象徴的な数字としては意味があるかもしれないけど、変化はもう多次元的に起こってると思います。みんな同じ世界に住んでるというわけじゃないんですよ。それぞれの意識にしたがって、ある意味別々の世界に住んでいるんです」

 なるほどヨナと、真央の決戦が意識に存在しないという人もいるわけだ・・・。

 これから社会不安も増大するかもしれないけど、そういう時に人が自己を内側から解放できるようなものを提供していくのが使命だと思っていると宮部さんは語っていた。

 「今までの時代はずっと曇りだったんですよ。でも今ところどころ日が差し始めている。すると影の部分もよりはっきり浮 かび上がります。ああ、そういうことだったのかってみんな気付いていくんです。ある意味でわかりやすくなってるんですね」

 最後に一応ここに来るきっかけになったイルカの夢の話しをして、ドルフィンスイムなどのワークは行ってるのかどうか尋ねてみた。

 「イルカが連れてきてくれたんだ(笑)今はやってないけど、御蔵島ってあるでしょ?あそこで最初にドルフィンスイムを盛り上げていったのって僕らの仲間なんですよ。今は人も多くてどうかな?って感じだけど。

 小笠原なんかいいんじゃないかな?」

 ああ〜小笠原、気になるチェックポイントのひとつ。

 いいかも。メモメモ(`・ω・´)

 帰り道、僕のすぐ隣の席で電車内でのいざこざに遭遇した。
 
 至近距離で怒鳴りあったりなだめたりしているので、いい気分ではなかったが、何かそれぞれがふさわしい役を演じているドラマのように見えた。条件付け的に飛び出てくる罵声。僕が隣に居る意味。

 この現象の意味を解読しようとした。

 いっぱいいっぱいになってる人がたくさんいるという事実?
 自分の過去の(今の)意識の一側面の反映?

 原因がなんであれ
 僕にできることは、それを受け入れ、すべてが神なるもののなかに包み込まれるように意識すること。
 根本的によきものであるシンクロネットワークの中に、みな組み込まれている。

 万象はすべて僕の中で焦点を結ぶ。

 翌朝目覚めた時に残っていた言葉

 真如。

 真如?

 真如 (しんにょ、tathata、 bhUtatathatA भूततथता)は、「あるがままであること」という意味があり、真理のことを指す。

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 2010-02-20

    ジョン・リリー博士のコズミックビジョン

 最近、ある理由からジョン・リリーの『サイエンティスト』を読み返していたら、冒頭に少々SFチックな宇宙誕生の描写が書かれていた。そこでもある局面で『愛』が発生する様相が述べられているので、引用してみたい。


 星の創造者(スターメイカー)が無の中での休息から目覚め、身じろぎをした。
 <対象を持たぬ意識>が活動を始め、自らの活動を見た。
 <対象を持たぬ意識>は自らのフィードバックにより、<零の境界>すなわち存在と無とが交互に節目をなす無限の自己展開(<存在1>、無、<存在2>、無、<存在3>、無・・・)を生み出した。無からハイパースペース(超空間)、つまり創造を喚起する星の創造者の最初の兆しがあらわれた。

 最大のゆらぎの中で、星の創造者は瞬間的にハイパースペース(対象を持たぬ意識)、すなわち星の創造者の<第一の境界>を生み出した。ハイパースペースは星の創造者によって創造の力を与えられた。

 ハイパースペースは同時にふたつの方向に働き、おのれの内に膨張する渦巻きと収縮する渦巻き、ふたつの渦巻きを生み出した。星の創造者が<第二の境界>すなわち身を寄せ合って互いにダンスを踊る二つのハイ パースペースの渦巻きを創造したのである。他にはまだ何も存在していなかった。
 星の創造者、ハイパースペース、ふたつの渦巻き、そして無、以上が宇宙の内容のすべてであった。

 ふたつの渦巻きは集合と離散のダンスを無限に踊り続けた。それらが互いに合体する時、恍惚的なエネルギーが発生し、そのエネルギーの高まりとともに、肯定的な愛のエネルギーが出現した。これが<第三の境界>、すなわち愛である。

 ふたつの渦巻きは、その接近の極みで、オルガスムのうちに融合した。オルガスムを伴う邂逅から二つの新しい渦巻きが紡ぎ出され、ハイパースペースの中の渦巻きを四個にした。その新たな二つの渦巻きは最初の二つの渦巻きと場所を交換しながらダンスを踊り、新たなペアを形成し、こうして二を単位とする創造がハイパースペースの中で続いていった。


 なんで本箱の中でほこりをかぶっていた、リリー博士の本を取り出したかというとある夢が原因なのだけど、これは今進行中の出来事なので、また結果がある程度出たら書きたい。(と、もったいぶってみますw)

 イクサス、ヴェシカ・パイシス、DNA、謎の魚たち

 「キリスト」とは、リリー博士の創世神話でいうなら「第三の境界、愛」そして、相対する二つの原理の融合による「独り子」であるのではないかと書いた。

 ところで古代キリスト教徒は、キリストのシンボルとして「イクサス」というシンボルを使っていた。
 以下は「生命の贈り物」中のイラスト。

     

 「イエスキリスト・神の子、救世主」をギリシャ語で書いたものの頭文字をとると、魚を意味する「イクサス」になるらしいのだが・・・この図形はそのようなアナグラム的な意味だけなのだろうか。

 この図形を見ていると、いろいろ連想するものがあり、ひとつはこれ、

 

 DNA二重螺旋を途中でちょん切ったような形に見える。

 そしてもうひとつは、これ。

 

これはヴェシカ・パイシスと呼ばれ、幾何学的に説明した神の世界創造プロセスの中で相対するふたつのものが始めてお互いに接しあった状態を言う。
 ジョン・リリー博士の創世神話では、膨張する渦巻きと収縮する渦巻きが融合し、「第三の境界・愛」が出現した状態と同じ。 渦は横から見ると▽だけど 上から見ると ○ になる。

 またドランヴァロ・メルキゼデクはヴェシカ・パイシスは光であり、それは人が光を感受する「目」の幾何学とも対応すると言っている。
 ヴェシカ・パイシスが光であるとするなら、前回引用した聖書の部分なども思い出される。

  ところで、イクサスととても似通った謎の魚のしるしというのがあり、これはキリスト意識ととつながっているのかあるいは直接には関係ないのかわからないが・・・これである。

       

 これもまたまたいつまでも多くのインスピレーションをもたらしてくれる『フラワーオブライフ』の中の写真だが、メルキゼデク氏がペルーのクスコで泊まったホテルでベッドカバーに見つけた絵。

 この描かれた魚(氏はイルカかクジラ類ではないかと言う)が何を意味するのか、ホテルの従業員たちは知らなかった。そこで車でチチカカ湖周辺までゆくと、そこの近隣のインディアンがこの魚の意味するものを知っていた。

「これについて何か知っていますか?」
 すると彼らは「ああ、知っているとも」と言って、それからなんとドゴンの物語にたいそうよく似た物語を教えてくれたのです!彼らの創造神話は次のようなものでした。空から宇宙船がやってきて、チチカカ湖に浮かぶ「太陽の島」に降り立ったといいます。それらのイルカに似た生き物たちは、水にじゃぶんと飛び込み、人々の側へやってきて、みんなに自分たちがどこから来たのか教え、インカ以前にそこにいた住民ととても親密な交流を持ち始めたというのです。
 

 このホテルに入る時、メルキゼデク氏は部屋番号が23であったことに非常に驚いた。
 その理由は、ドゴン族、そしてシリウスと関係がある。
 アフリカのドゴン族はシリウスと関係がある伝承を非常に多く持っていることで有名だ。
 彼らはイルカに似た生物がある日、天空からやってきて自分たちに多くの知恵を授けてくれたと考えている。
 多くの天文知識、特にシリウスAとBの公転周期などについても空から来た存在によって教えられたという。


黄金のサッシは何ですか

 さてそのシリウスだが、この星はドゴン族の住むアフリカではシリウスが地平線の下に隠れたあと数ヶ月視界から見えなくなる。それが再び姿を現すのは7月23日の朝・・・太陽が昇る一分前、ルビーレッドに輝きながら太陽と同じ方角からシリウスが昇るこの現象は「ヘリアカルライジング」と呼ばれている。

 23という数字は、つまりシリウス伝承の地アフリカのドゴン族の居住地で観測できる、このヘリアカルライジングの日付を意味している。

 この23という数字がシリウスの研究家などのところに、しつこくシンクロニシティックに現れることがあり、ロバート・アントン・ウィルソンの「コズミックトリガー」ではこの23の暗号に� ��いて考察されている。
 メルキゼデク氏もちょうど、ドゴンの研究中に23に遭遇したので驚いたということだ。
 しかも、その部屋の中で魚のしるしをみつけてしまった・・・!

 お〜今日はそして2月23日じゃないか(笑)ワチョ――ヽ(・∀・)ノ――イ♪ 

 さてこのイルカ(クジラ?)型シリウス星人の絵と、イクサスは関係あるのだろうか?

 腰をくねくねする若者と、グロフのBPM機◆峪辧廚遼寨茲両態に帰る

 話はまた一見あまり関係ない方向へ飛ぶが、昨日日本でアイソレーションタンクを使ったセッションを行っている方が、初めてセッションを受ける人へタンクのことを説明している音声ファイルを聴いた。

 その中で面白い話しがあった。
 最近20代の若者で、セッション中に同じような動きをする人がたくさんいたということだった。

 アイソレーションタンクというのは、その内部が体を浮かべる液体で満たされたタンクで、体験者はその中に生まれたままの姿ではいる。無重力状態で感覚が遮断されるので、次第に意識が肉体中心ではなくインナーなものになっていく。もともとはリリー博士が、脳は外側からの感覚入力がなくても機能するか? ということを確認するために開発したものだが、リラクゼーションやセラピーにも活用できる。
 
 体験者は東欧の精神医学者スタニスラフ・グロフがBPM1と名づけた子宮内部での安心感のようなものを思い出すことがあるが、最近別々の若者数名がドルフィンキックのような腰をくねらせる動きをすることがあったと言う。
 からだが魚になったように、自然とそのような動きをするらしい。

 これに対するセッション主催者の人の意見。タンクに数回入ると、意識が一番心地よかった時の記憶とアクセスするようになるらしいが、もし胎児期の頃が、母親のストレスだとか何かの要因で安心し切れなかった場合、意識はもっと
母の胎内で、進化の系統発生を辿るように、「魚」に近い状態の頃まで遡行しようとするのではないかという「仮説」を話されていた。

 その正否について、僕はもちろんわからないが、話としてとても面白い。

 と同時に思った事は、「子」の状態とは本来BPM1のような安心しきった、委ねきった、信頼しきった状態ではないかということだ。
 子宮という楽園を出て、大人になっても、僕らは宇宙の「子」である。
 この世界に対して同じように、安心しきった状態で生きることが出来ることが「子」の理想だ。

 不必要な緊張や 肉体のこわばり、ブロック 感情的バリアーというようなものから、なるべく自由に身軽になることが幸福と深く関係している。
 つまり二本の足で地上を歩きながら、安心しきった「幼子のように」生きるということだ。

 「子」、生命の樹のティファレトは「美」である。
 美とは均整が取れた状態。人の、その本来の状態。
 僕らの肉体は羊水中の浮力の中で、無重力の中で形成されていった。
 「子」の本来の状態とは、重力から自由な状態。
「美」の根源は無重力の世界にあるのか?

 魚のしるしとは、宇宙の子として愛されし、僕ら自身、でもあるかも。

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 2010-02-16

 幾何学図形としてのイエス

 これら許しの祈りの出現と平行して、なぜかイエスの存在がシンクロネットワークを通して、何か語りかけてくるようだった。(イエスと話したとか言ってませんよ)

 イエスの存在は僕の中でふたつの意味を持っている。

 ひとつは、彼が人間に立法と戒律の代わりに「愛」と許しを定着させるためのマスターだったということ。

 ふたつめは、いわゆる至福の千年王国、新しい宇宙サイクルの到来を告げる使者であったこと。

 そして、その「わたしと同じわざを、それよりも偉大なるわざをあなた方は行うだろう」という言葉より新しい意識と人間の、前触れとして訪れた存在だったのではないかと思うこともある。

 イエスとは一体なにものであっ� ��のかを考えた時、こんな答えが浮かんだ。

 イエスとは、幾何学図形である

 その意味を、書いてみたい。

 イエス・キリストとはひとつの人格ではない。
 そうではなく、この現象世界よりも先行して存在する、イデアの世界(神々の世界)を構成する「ある原理」が人間としての肉体を持って誕生したものではないだろうか。

 イエスは、神の「独り子」と言われる。
 この意味も気になるところだった。
 どうして、二人ではなく、一人っ子なんだろうか?
 この「独り子」という言葉にもイエスキリストとして受肉した宇宙原理がどんなものであったかを知るヒントが隠されているように思う。わかりやすいので、また生命の樹を持ってくる。

           

 この樹の真ん中近くにある、Tiphareth(ティファレト)という球は「キリスト中枢」と呼ばれている。
 この中枢は10個の球のうち9個と直接小道によってつながれている。
 ティファレトとは「美」を意味するが、美とは力の均衡、バランスによって出現するものだ。
 力の過剰、または不足による不均衡は、「クリフォート」と呼ばれる樹の暗黒領域で見られる。
 ティファレトはミクロコスモスでは、ハートと対応し、高次の自己が存在する魂の座でもある。
 ティファレトはあらゆる諸力からの寵愛を受ける、恵まれた球であり、絶対者「ケテル」とも直接につながっている。
 このティファレトのイメージと、その配置が意味するものは、「神の独り子」が意味するものと極めて近いように思える。

 さらにイエスの存在の性質について、語っている聖書の部分を引用してみる。

 まず、ヨハネの福音書、その冒頭を見てみよう。
 そこにはイエスについて次のように書かれている。

 ヨハネ1:1〜5
 
 初めに言葉があり、言葉は神と共にあり、言葉は神だった。
 この方は初めに神とともにいた。
 すべてのものは彼を通して存在するようになり、
 彼を離れて存在するようになったものはひとつもない。

 彼によって存在するようになったものは命であり
 命は人の光であった。

 そして、光は闇の中で輝いているが、闇はこれに打ち勝ってはいない。

 ヨハネ1:9〜11

 どんな人にも光を与える真の光が世に入ろうとしていた。
 彼は世にいたのであり、世は彼を通して存在するようになったのに、世は彼を知らなかった。
 彼は自分のところに来たのに、その民は彼を迎え入れなかった。

 これを読んで浮かぶのは、イエスは命の「門」であるというイメージだ。

 生命自体が、この世に生まれるためにそこを通過するゲート。

 その門はひとつしかないがゆえに、すべての生命はそこを通って生まれる。
 イエスというのは、ひとりの偉大なマスターの名前と言うよりも、この生命の「門」が使命を果たすために人間としての肉体をまとった時につけられた名前ではなかっただろうか。

 ティファレトがあらわす力の均衡とは、陰と陽の、男性性と女性性の、太陽と月の、あらゆる二元性が融合しているということでもある。
 生命は、宇宙は、その宇宙的二元性の相互作用によって生まれたと昔から言われている。
 キリスト、つまり「命の門」は二元性の融合点であり、生命の発するポイントであると同時に、わかたれたものが一つに還っていく時に必ず通過するポイントなのかもしれない。

 それが「独り子」の意味だろうか?

 そう思った時、△と、▼が融合した六ぼう星の意味が・・・・・

 これって・・・・キリストのことじゃないんすか?

              

 そんで、だからこの六ぼう星をはらむ、六角形(Mother turtle)は・・・マリア、宇宙的聖母(Cosmic Mother)?

            

 待てよ、キリストが六ぼう星と、母なる亀の中にいる絵をどっかで見た。

 あ〜これだ!ビンゴΣ(; ゚Д゚)

        
           

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 2010-02-09

 オポノポノ、カフナの伝統と、『生命の贈り物』の共通点

 最近ブームになっていた、オ・ポノポノはカフナの癒しの儀式を簡略化したもので、セルフアイデンティティーオ・ポノポノとも呼ばれている。
 セルフアイデンティティーオ・ポノポノは「ありがとう」「ごめんなさい」「許してください」「愛しています」という4ワードを主に自分のロウセルフ(ウニヒピリ)に対して語りかけるものでオ・ポノポノのセミナーなどを行っているヒューレン氏によるとロウセルフがこれらの言葉を受け入れることによってクリーニングが行われ、インスピレーションが降りてくる状態になると言う。

 セルフアイデンティティーオ・ポノポノがカフナの思想と異なるところのひとつは、それを自分自身に向かって唱え続けることで状態が好転するとしているところだろう。
 
 カフナの思想では、誰かを傷つけたら「自分が傷つけたその人物から直接に許しを請う」のが基本とされている。 
 
 『生命の贈り物』の著者ハワード・ウィルズも、症状の進行したがん患者のヒーリングを引き受けた際、彼に対して以下のようなアドバイスをしている。

 自分を傷つけた人たちに電話をして仲直りをすること。傷つけたことがある人たちに電話をして許してくれるようにと頼み、それから、人を傷つけた自分自身を許すこと。それから、家族の一人一人に謝罪すること、そして、家族の一人一人が彼に謝罪すること、そしてお互いの目を見て、愛していると口に出していい、ハギングをするようにと言ったのです。

 これらが病の改善に効果があるだろうことは想像に難くない。
 誰だって自分の非は認めたくはないものだし、お互いに謝罪しあうということはほぼ日常的にはないシチュエーションだろう。その非日常的な儀式の後にハグし合うというのは、強力な癒しのパワーを発動させると思う。

 これを書いていて、インドに行った時、ブッダガヤーで案内をしてくれたみやげ物屋の親父さんのことを思い出した。ちょうどその時はホーリーという大きなお祭りの日だった。
 僕も店の奥で、フルーツとやたらアルコール度の高いビールをご馳走になった。

 「ホーリーになると、喧嘩した相手の家にでも遊びに行って、一緒に飲んでくださいと言うんですよ」と彼は言っていた。それを聴いて、そういう日があると言うのはとても素敵なことだなと思った。
 文化的にお互いを許しあえるような、そういう日が設定されているということは、とても健全な社会なのではないかと思う。
 そのような習慣がない社会では、生きている間に積もり積もったもやもやした思いが病の原因になるというのは大いにあり得ることだろう。

 基本的には『生命の贈り物』は自分で唱えるものだが、多分、ウィルズ氏が直接担当したケースでは、緊急的な改善が必要だった為に、お互いに許しあい、愛を確認しあうという儀式を行ったものと思われる。
 やはり、他者の口から、自分への、許しと愛の言葉を聴くというパワーは大きいものだ。

 このようにして見ると、やり方に多少の相違はあるが、オポノポノも、カフナも、『生命の贈り物』の祈りも、そのポイントは「愛と許し」にあることがわかる。
 
 なぜ効くのか?そのメカニズムの推測

 『生命の贈り物』に限って言えば、それは許しの祈りと、癒しの祈りがセットになっている。

 まず自分を傷つけた人を、「主のご助力により」、完全に許せますようにというもの

 自分が傷つけた人が、「主のご助力のより」、私を完全に許してくれますようにというもの
 (その相手への謝罪の言葉も入る)

 そして自分自身が、「主のご助力により」、私自身を完全に許せますようにというもの
 (自分自身への謝罪の言葉も入る)
 
 おおまかに言えばこれが「許しの祈り」だ。そして「癒しの祈り」は
 神、生命エネルギー、なんと呼んでもいいが自分を生かす、エネルギーと自分をつなげる祈りとなっている。

 主よ、私が、安らぎと生命と光と愛と完全さの中で
 あなたの地球と一緒になりますように
 あなたの天国と一緒になりますように
 あなたと一緒になりますように
 創造物のすべてと一緒になりますように
 私自身と一緒になりますように
 こころが感情と一緒になりますように
 感情がからだと一緒になりますように
 どうぞお願いします

 そして最後にすべての創造物を愛し、祝福するという祈りでしめられる。

 私は、自由と生命と癒しの贈り物を祝いながら、すべての物、すべての時、すべての宇宙、すべての次元を、私の愛で満たします。

 今、この時に、そして永遠に

 天にまします主よ、感謝します
 主よ、感謝します、感謝します

 カフナの教えでは、人の中のウニヒピリ・ロウセルフ(インナーチャイルドとも言える)が罪の意識を持っていれば、彼は高次の力の前に出るのを嫌がるので、アウマクア・ハイセルフとうまくつながることが出来ない。
 例えば、ウニヒピリの信念を顕在意識の私、ウハネがよく理解していないというやっかいなケースの場合は、部屋にヌードのポスターを貼っただけでウニヒピリが『これは罪である』と認識し、アウマクアとの道をふさいだり、ウハネを罰するような現象を呼び込む。
 このようなケースの場合は、ウニヒピリにそれは罪でないと納得させるか、あるいはそういうHなポスターは部屋に貼らないかどちらかの選択をする必要がある。

 だからまずは、高次の存在とつながろうとする儀式には、浄化の儀式が常にセットになっている。
 火や水による浄化の儀式も、見えない層でのエネルギーをきれいにするというだけではなく、ウニヒピリ・ロウセルフを納得させ、ウハネと統合させ、神へ向かうのを邪魔させないようにするという意味もあるのではないだろうか。

 というのはロウセルフは基本的に非常に唯物的というか、物質的な刺激があって初めて納得するようなところがある。それは顕在意識の私・ウハネとは違う論理で生きている存在らしい。

 水がかかって、あーつべたい、つべたいっ!(。>皿 火の粉がかかって、あちちちっ!(≧皿≦メ) となって初めて

 お〜罪が清められている(-人-) 南無南無・・と思うようなところがあるのかもしれない。

 ※ただし、そのような激しいものではなく、そっとからだに手を触れるなどの行為だけでも物理的な刺激があるとウニヒピリは暗示を受け入れやすくなるようだ。

 カフナ的に言えば、この浄化の儀式のために「許しの祈り」がある。
 「許せない」と言う思いがいろいろなものとのつながりを阻害しているからだ。
 そしてそういった思いが解放されたあと、すべてとのつながりを取り戻すような「癒しの祈り」が唱えられる。

 これら『許し』と、神へ向かうことがセットになっているために、より治癒的なエネルギーを受け取りやすくなるということだろう。

    「そうだね。」と言う

 ところで、ロウセルフ・ウニヒピリは、ハイセルフと顕在意識のつなぎ目であると同時に、記憶と感情の貯蔵庫でもあるので時と場合に応じて様々な感情を発生させて来る。それがあんまりヘビーなものであるとその対処に困る。

 結局、精神世界や、ヒーリングと呼ばれるものの主眼目は「ネガティブ(と思われること)にいかに対処するか」ということについての莫大なHow toという側面を持っている。僕もいろいろやってきたけど、最近一番よいと思われる言葉は
   「そうだね」 という言葉だ。

 例えば、「嫌だ」「腹が立つ」「もう限界」「お先真っ暗だ」「何も信じられない」「生きててもしょうがない」などの感情が眠れない夜などにぐるぐると回りだしたりしたら、その感情の源に対して「そうだね、、、」と言ってあげることだ。

 ポジティブになろうとしたり、意識を別のことに向けようとしない。
 ただ、「そうだよね〜、わかるわかる(  ´∀`  )」とその声を聴く。

 これは、その感情がすべて正しいと認めるということではなく、

 「君が今、そう感じることは、まったく自然なことで何も間違ってはいないよ」という風に一旦受け入れてあげることだろうか。

 そしてその怯える存在に対して、「愛してるから、大丈夫だよ」と声をかけてあげる。

 そうすると不思議なことに僕が感じていたと思っていた感情とは、「彼・ウニヒピリ」のものであったことがわかる。 そして感情の苦を占める大きな要素とは、その感情を「拒絶する」ことから来ていることが実感として体得できる。しかしそれを拒絶することは、「私」と「彼」の間にさらに大きな溝をつくることになる� �だ。 

 これをしてみると、彼はおとなしくなり、僕自身も自分がひとつにまとまったような幸福感を感じることが何度かあった。「彼」が泣き喚くのは親に話を聞いて欲しいのだ。必ずしも自分の思い通りにしたいからではない。だから耳を傾けて、自分が彼を否定してはいないことを理解させてあげることが大事なのではないかと思う。

 それはもしかすると、今までエゴや、サタンなどいろいろな名で呼ばれてきたかもしれないが、本質は「私」の「子」である。それを受け入れないことで恐ろしげなものに変えてきたのは「私」なのではないだろうか。合理化の為自分の内側にネガティブな存在を想定することはしばしば新たな問題を発生させる。。それは最終的には、さらなる分離をもたらすからだ。

 ネガティ ブな感情の多くは、自分がその状態を嫌い、どうにかしようと暴れ、その感情状態の自分をさらに嫌うことから来ている。
 その原因はある種の「愛の欠如」であるから、それをさらに叱ったり、拒絶しても負の連鎖が続く。
 愛情不足の子供とひとつの家に住んで、彼がしょっちゅう悪さをするとしたら、必要なのは彼に理解と共感を示すことだ。
 僕らの肉体-精神もそのような家と同じで、そこに複数の自己が住んでいる。
 その「家」の雰囲気を殺伐としたものとするか、心安らぐものとするかは、自分の「子」にいかに愛情深く接するかにかかっているのである。その「子」を受け入れることに責任をもつことは、他者に優しくするとかいうこと以前に必要なことだと思う。
 そして結局自分の外側の現実は、自分とその「子」の関係に応じたものとしてしか展開し得ない。
 
 ウニヒピリは受け入れている限り、危険な存在ではない。
 傷ついたウニヒピリはまだ同じ家に住んでいるが、あまりにも無視され続けると、彼はグレてヤンキーになる。
 そしてウハネが彼を拒絶したのと同じくらいの力で、家をのっとろうとする。
 そしてウハネのコントロールを越えて、突発的にあふれ出す。
 これが衝動的な自傷行為や破壊的行動の原因のひとつだと思う。

 僕らはひとりの人間ではない。
 その内側に賢者も、また小さな子供も一緒にかかえて生きている。
 賢者(ハイセルフ)は僕の父で、そして僕の子(ロウセルフ)は彼にとって孫にあたる。
 子より孫がかわいいとはよく言うが、僕が子を虐待していたら、父もいい顔をしないだろう。
 自分の子供に責任を持つことで、僕らは父祖の知恵にあずかれるのかもしれない。

 

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 2010-02-09

 最近、一日一回は『生命の贈り物』を読み上げる日々が続いているけど、この流れいつから始まったのかというと、去年の11月終わりくらいからだと思う。マウイ島行ってる夢を見た。

 それをもう少し遡ると去年の夏の恐怖体験や、6月に参加した奈良太陽の道ツアーなども変化のポイントとして大きいかもしれないけど、あんまり遡りすぎても結局全部つながってきてしまうので(;^ω^)

  マウイの夢見た、次の日くらいかな・・・リチャードバック:ダンテスダイジの「救世主入門」の一節が夢の中に出てきた。この箇所。

 ありありと想像せよ
 宇宙は美しく完璧であると
 救世主は
 君たちよりうまく
 それを想像するだけだ

 そしてなんかよくわからないがアメリカ西海岸とか、オーストラリアの海岸沿いの街とかなんかそんなイメージの場所が現れ、ラジオのDJがその街の名物料理について喋っている場面が出てきた。ホタテのバター炒めとかなんかそういうの。あれ、ホタテって北の海だけでとれるんだっけ?

 まあ、ホタテがどこで取れるかはおいといて、とにかくその海岸沿いの街のイメージと、上の『救世主入門』の言葉が妙にシンクロしていたのだ。その海岸沿いの街の印象は、陽気さと自由さで、僕がよくフォーカスしている現実とはまったく別の世界が存在している、あーいろいろな世界があって、そのそれぞれにいろいろな人が生きているんだなというような感慨を抱かせるイメージだった。

  あーこういう世界もまあ、あるよねという感じ。
 ニュースばかり見てそれが、世界だと思い込めばこんな暗い気持ちになることはないが、宇宙にはいろいろな世界がある。
 例え大不況で、またいろいろ嫌な事件が起こったりしていても、熱帯の海では魚たちが泳いで、そして砂漠の夜には大きな月がかかり、カナダの針葉樹林では鹿が駆けているだろうし、北欧のフィヨルドはゆっくりと移動している。

 

 この世界はとても豊かだ。

 

 自分の意識がフォーカスしてる部分をずらして、そういった次元の現実を見つめれば、宇宙は美しく完璧であるとも言える。

 そして、どこかよくわからない海岸沿いの街で陽気な人たちが、話しているレストランを想像すると言うのも良い。
 宇宙(世界)は美しく完璧であると想像することは、どこの現実に主に焦点を合わせるかと言うことと関係していることをその夢は教えてくれたような気がした。

 ところでホタテのバター焼きの話をするDJの声が流れる街は、

 うーん・・・まあ、こういう感じかなあ・・・

 

 こーいうのとかねえ〜。

 要点は、宇宙を完璧だと思いたければ、自分の好ましい宇宙に意識を合わせればいいということかなあ・・・。


stのシンボルは何だったの。

 これは自分ひとりで妄想の中で遊んでるのではなく、きわめて現実的に意味があることだと思う。
 というのは「好ましい世界のイメージ」を持ってるかそうでないかで、まったく人は別の現実に生きているとも言えるからだ。
 自分の外側に広がる世界が、しめつけ、暴力をふるい、圧迫し、抑圧し、搾取し、最終的に殺してくるものと思うか
 自分の外側に広がる世界が、包み込み、やさしく愛撫し、育み、魂を解放してくれると思うかでは体験する現実がまったく変わってくる。
 僕らは闇の胎内にいるのか、あるいは光の胸に抱かれているのか?

 念のため言うと、格別西海岸が好きとかではないんす(;^ω^)
 夢の中では魅力的だったけど。

 で、その夢をみた日の朝、時々コメントくれる方がマウイ島やカフナに詳しいというコメントをブログにくれて

 まあ、そういうシンクロの流れで、カフナの伝統や、オポノポノのことを調べたりして、最終的には『生命の贈り物』の祈りに出会った。

 もし世界を好ましきものとして祝福すれば、世界も僕らを祝福してくれる。

 これはシンプルな仕組みであると思う。

 

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 2010-01-11

 ゆるしの祈り

 私は、今日の日を祝福します。そして私の命のために感謝します。

 私を傷つけた人々をすべて、完全に許します。(3回繰り返す)

 私が傷つけた人々すべてに、どうぞ許してくださるようにとお願いします。(3回繰り返す)

 私自身に対する私の過ちに関して、そして、他の人々に対する私の過ちに関して、私自身に謝罪します。(3回繰り返す)

 私が傷つけたすべての生命体に対して、そして、私が過ちをおかしたすべての生命体に対して謝罪します。(3回繰り返す)

 この解放、自由、安らぎ、新しい命をもって、全宇宙の創造物を祝福します。そして全宇宙を私の愛で満たします。

 この地球と、すべての生命と、すべての人々を愛します。そして� ��福します。

 目に見えるもの、目に見えないもののすべてを愛し、祝福し、尊敬します。

 私の新しい生命と、力と、健康を喜び、感謝を捧げます。生きとし生けるもののすべてに対し、常に、完全な祝福と愛を捧げます。

 これは『生命の贈り物』の一番最初に出てくる祈りで、特に信仰を持っていない人や、無神論的な人にも対応するようにデザインされていると言う。
 これ以降の祈りには、主への祈りや、「主のご助力により・・・許します」という言葉がたくさん出てくる。

 でも基本的にすべての型が「ゆるしの祈り」の中に含まれている。

 すべて『生命の贈り物』は「許し」に関する祈りだけど大きく分けると、

 ー己が他者を許すこと

 ⊆己が他者から許してもらうこと

 自己が自己自身を許し、また許してもらうこと

 のパターンがあり、その「自己」の規模が、家族や祖先から、また地球に住むすべての人を「私たち」とくくった大きな自己にまで広がっていく。

 根本的にはこれは「癒し」を目的とした、祈りの言葉だ。

 病というのは生命の流れが阻害されている状態であり、それを阻害しているのが許 されないという想念のかたまりということなのではないかと思う。
 だから、祈りの最後には、それらから解放された姿として、「新しい命」という言葉が登場するのだろう。

 カフナ的に言えば、これらの言葉を繰り返し使うことで、ロウセルフと、ハイセルフの道を閉ざしていた部分が清められ、高次の自己からの生命力がより強烈に流れ込んでくるということなのかもしれない。

 人の中には明らかに、強烈な自己治癒力が潜在している。
 要はそれをどのように機能させるかということだけど、想念を浄化することによって、自己より高次の力を流れやすくするということがこの祈りのポイントではないかと思った。

 「許し」と書いたけど、それは「愛すること」と置き換えても意味的に同じだと思う。

 ー己が他を愛すること

 ⊆己が他から愛されること

 自己が自己自身を愛すること

 そしてこの「愛」自体が、流れ通る生命力であり、病を癒すものであり、アウマクア、ウハネ、ウニヒピリの三つの自己を結びつけるものなのではないだろうか。
 許しによって、愛=生命力が浸透する。
 自己はその愛が流れ通る媒体となることによってのみ癒され得る。
 
 生命の贈り物の祈り、8個全部唱えると、なんか顔の毛穴が開いたような感じになる。
 なんか激しく泣いたり、過呼吸のブレスワークやったりした感覚にも似てるような・・・。
  
 人によっても感じ方は違うと思うけど。

 自他の癒しに関心のある人にはお勧めです 

 これ、激しく現象化する人は、相当するんじゃないかな〜。

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 2010-01-06

 相方が最近セッションを受けたヒーラーお勧めの、『生命の贈り物』という祈りの本。

 先日立ち寄った本屋さんで見かけ、手にとって見ると、とてもきれいな絵と、そしてこれは・・・またまた△と▽のの融合としての6ぼう星??

 

 この六角形って宇宙の原初の幾何学らしい。
 I先生はお母さんが(あらゆる存在のルーツ)この六角形にのって宇宙をびゅーんと飛んでるビジョンを見たと言ってた気が。
 僕は最近、これを「亀」とも呼んでいる。
 カメの甲羅に似てるからっすエヘヘ(*´・∀・`*)ゞ

 亀って、昔の人の宇宙観みたいので、一番下で世界を支えてるけど。。。

 あと・・スティーブンキングの「IT」という小説で絶対悪と対決する子供たちを助けるのって、「亀」なんだよな〜。ほとんど何の説明もなく「カメ」が出てくるからあれは不思議だったな。

 ↑フラワーオブライフもやっぱ接弦するポイントを結べば六角形になるしな〜。

                    

 

 マリアであり、イエスであり、ガブリエルであるものって??

 この祈りは徹頭徹尾「許し」がテーマと言ってもよく、ホ・オポノポノとかととても通じるところがある。

 うーん、今年はこういうので浄化せよということかな・・・。 

 なんか本から伝わってくる存在感がすごい気がする。

 《光のまなざし》

 ハワード・ウィルズ氏によってもたらされた
 「生命の祈り」が日本で翻訳され
 富士山を望む山中湖の大内邸で披露された日のことでした。

 突然、ワークの合間にベランダで見たものの
 「美」と「意味」が胸に飛び込んできました。

 さまざまな形の六角形の結晶体が
 ほとばしるようなエネルギーの流れの中にあり
 光であり、愛であり、繊細で暖かく
 いつも祝福をもって見守ってくれる存在たち。
 『曼荼羅』であり『マカバ』であると
 その姿をかいま見た人々に語り継がれてきた
 大いなる存在たち

 その六角形のまばゆい結晶体は
 人の姿に細長く広がりながら目の前に降りて来ました。

 『イエスであり マリアであり、ガブリエルであるもの』
 光の存在はそう告げました

 あらかじめ失われた男性性と女性性との
 完全な合一、めくるめく悦び
 この世の森羅万象は、あまねく光に満ちた
 ひとつのいのちであること

 祝福に満ちたまなざしが すべての命の上に
 いつも注がれていること
 「意味」が暖かく胸に流れ込んできました 『生命の贈り物』冒頭より

 そいつはすごい。
 いっちょやってみっか ━━(`・д・´)ノ━━!!

 

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 2010-01-01

 大晦日に「カフナの秘法 実践編」を読んで。

 ハワイのヒーラーカフナの伝統では、人は3つの自己よりなると考えられている。

 ひとつめは、ウニヒピリと呼ばれる低い自己で、一般的に言われる「潜在意識」とかなり意味合いが近い。
 今まで経験したものを貯蔵する記憶の倉庫で、不合理な固定観念や、罪悪感、恐怖なども保存している。
 ウニヒピリは機械的に動くので、ひとつの状況に遭遇すると自動的にそれに対応するコンプレックスが作動し、感情を表出させる。
 悪いものだけではなく、もちろんいいもの、役に立つものも保存している。
 朝、早起きの習慣があると機械的にある時刻に眼が覚めるなど。
 「潜在意識」の概念と少し違うのは、ウニヒピリはそれ自身で命を持っている霊と考えられているところだろうか。
 
 ふたつめの自己は、ウハネと呼ばれるミドルセルフ。
 これは普通に生活していて認識できる、自我意識をあらわしている。
 意志を発揮し選択行為をする。
 本来ロウセルフの案内役とされているが、ロウセルフからあがってくる感情などに常に幻惑される。

 みっつめはアウマクアと呼ばれる高い自己で、ハイアーセルフ。
 ミドルセルフの親のような存在で、人と神、創造主との接点である。
 ミドルセルフに、インスピレーションやビジョンを与えたり、必要な援助をする。

 ただ、ミドルセルフはアウマクアに対して祈りを行うとそれは、ロウセルフであるウニヒピリを必ず経由する。
 というのは、アウマクアに対して祈りを届けるコード(アカ・コードと呼ばれる)はウニヒピリから伸びているからだ。ちなみにアカというのは影体、影の体と訳されているミドルセルフやロウセルフが宿る普通では見えない体だ。これはアストラルボディと考えてもいいと思う。

 

 こーゆー感じ?
 
 太いアカコードは、影体と肉体を結んでいる。
 よく対外離脱した人が見ると言う、おへそから伸びる「シルバーコード」と同じものだと思う。
 そして別のアカコードは、一度でも接触した人やものとつながり続ける。
 常に見えない紐で結ばれているわけなので、いい影響も悪い影響も受けることがある。
 そしてまた別のアカコードは、ハイセルフであるアウマクアとつながっている。

 ミドルセルフがハイセルフとつながる時には、ロウセルフのアカコードを経由するというのが興味深い点だ。
 ロウセルフに大きな罪悪感や、固定観念があると、ミドルセルフの祈りはハイセルフに届かない。
 カフナはこれを「道が閉ざされている」と呼ぶと言う。

 自分はそれに値しないと言う思いから、ロウセルフはハイセルフの面前に出るのを嫌がると言う。

 ここで「罪悪感」というものが大きなポイントになってくる。
 カフナは「人を傷つけない限りそれは罪ではない」と言う。
 だが性的なことや、その他のやめられない習慣などで持つ必要もない罪悪感を持っている人も多い。
 罪悪感に対しては、「許し」という処方箋しかない。
 それは人をきず付けた場合であっても、結局最終的には自己の内部でしか許しは起こらず、いくら傷つけられた被害者が加害者を許しても、自分がそれで「許された」と心のそこから納得しなければ罪の意識は消えない。 

 いかに罪悪感を含む、ロウセルフの固定観念を解放するかが焦点になってくる。
 ホ・オポノポノでは「ありがとう」「ごめんなさい」「ゆるしてください」「愛しています」という言葉を効果的に使うことによってこれを行おうとするがこれは、カフナの伝統の一部のそのまた一部らしい。

 ウニヒピリは物質的なことを信用しやすく、因習的な罪と罰の感覚に支配されているので、罪の償いとしての苦痛を受けることで、罪悪感から解放されることもある。(例えば、ちょっとこれは多すぎるんじゃないかと思うくらいの寄付や、宗教的な苦行や、怪我など。)なんかこれが本当だとすると、迷信的な治療とかちょっと古臭く見える修行もあながち馬鹿には出来ない。だってその対象はロウセルフなのだから、彼のレベルですることが肝要なのだ。
 ただ本来はホ・オポノポノのように「許す」ことが出来ればそれでいいのだと思う。

某精神世界で有名な人が主催している、真我実現なんとかセミナーというのがあるけど、これは基礎編では内観をしてそれまで関係があった人に感謝や謝罪をするということをする。まあ、そういうことをすることによって真我からの応援を受けられるという風にその方は言っていたけど、この真我ってあきらかにカフナの中では『ハイセルフ』のことだ。                

 悟り系の知識がある人は、真我はハイセルフ自体ではないということがわかる。
 カフナの伝統でも、ハイセルフは、創造主とのつなぎ目であると言っている。
 だから、ミドルセルフ=自我 ハイセルフ=個我(魂)と言ってもいいのかもしれない・・・。

 しかし、言葉の定義を別にすれば、内観などでウニヒピリが罪悪感を手放し、道がクリーンになればハイセルフと通じやすくなるというのは、純粋にシステマティックな現象として起こるのかもしれない。
 
 マルクトと、イエソド、ティファレト 
 
 このハイセルフの自己を見ると、自動的にカバラ生命の樹、中央の柱のティファレトというセフィロートが思い出される。

           

 ティファレトはキリスト中枢と呼ばれていて、その象徴する天体は太陽、と人体では「ハート」そしてティファレトは、絶対者ケテルと直接つながっている。ハイセルフであるアウマクアもその象徴は太陽だ。 

 そして、ティファレトの下には幻想の天球と言われるイエソドがある。
 そのシンボルは「月」と「生殖器」
 少なくともウニヒピリの一部はイエソドから成っていて、実際月の運行に強く支配されているのではないかと思う。

 そして人がもし一番下の球マルクトにいるとすれば、イエソドは、ミドルセルフとハイセルフのつながりを阻害することがあるロウセルフのように、ティファレトの前に立ちふさがっている。

 三つの自己の統合

 このようにして見て行くと、ロウセルフはハイセルフとの交流を邪魔するやっかいものに思えてくるが、悪役とはみなされない。ウニヒピリ(潜在意識)は僕らの「子」だという。これもとても面白いポイントだった。
 ウニヒピリが生きている「霊」だと言うのも面白いけど、これはミドルセルフである僕からすれば「子」であるというのだ。そしてハイセルフは「父」だ。

 ウニヒピリを恐れたり、嫌がったりするのではなく、それを許し、また彼に許しを乞い、受け入れる、そんな祈りが書かれていた。
 
 ウハネ(ミドルセルフである私)がこれを読む

 父と母と子の一つなる聖なる創造主よ

 子よ、長い間私が積み重ね、あなたに強いてきた、誤った思いと言葉と行動をすべて許してください。
 今、私は、母として、あなたの過ち、恐れ、怒り、不安、罪、葛藤をすべて許します。

 さあ、手を繋ぎましょう。
 手をつなぎ三人が一つになれるように、アウマクアにお願いしましょう。

 私からあなた(ロウセルフ)へ、私たちから父(ハイセルフ)へ、愛が流れますように。
 聖なる創造主よ、聖なる愛の輪で私たちを包んでください。

 ロウセルフとミドルセルフが手を繋いで、ハイセルフに向かうと言うイメージが美しい。

 僕はこれを唱えてみて、とても新鮮な感覚を感じた。
 無意識に、無意識を悪者あつかいしていて、自分の奥深くにあるものを恐れていたのかもしれない。
 それが自分の「子」だというのは・・・なかなかいい感じになる祈りだと思う。

 ゲド戦記という小説で、自分の「影」を呼び出してしまった魔法使いハイタカが、それから逃げ回り、最後には「影」を抱きしめ合一し、「傷は癒えた」と涙を流すシーンがある。(ハイタカというハンドルはそのゲド戦記と、ヘッセの「デミアン」大好きなふたつの小説から拝借している)
 その感動的なラストを思い出した。
 なんであれ、分かたれていたものがひとつになる瞬間というのは美しいと思う。

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 2009-09-18

  16日(水)、吉祥寺「からだはうす」のチャクラブリージングミニワークショップに参加する。

  実は、ここ7年前の2002年にも行ってホロトロピックブレスワークを初体験したところで、その時に体験談をHPに掲載してもらったことがあった。

 ので、もしかしたら顔を憶えてもらってるかな〜と思ったが、
 「いや、実は7年前にも参加しまして・・・」と言うと主催者のTさん、

 「え〜そうなの!」と過去の参加者の名簿をぱらぱらめくるが、

 「ごめん、憶えてない!」と力強い返事が返ってくる^^;
 でも他の参加者の人が、「はいたか君?彼とドラッグの話とかしてたじゃない。なんで憶えていないの?」と。僕が前回ペア組んだ女性だった。

 「え、そう!?俺滅多にドラッグの話はしないんだけどな。そのうち思い出すかも」
 と言いつつ、Tさんの記憶は戻らず(笑)
 しかし前回もこの、Tさんの裏表なさげなキャラに好感を感じたことを思い出す。

 今回、相方と二人で参加したので、まずは前回と同じく初心者用のレクチャーを彼女と一緒に聴く。
 チャクラブリージングは、それぞれ身体の中でエネルギーのブロックが出来やすい、胸やのど、下腹部などをそれぞれ対応した音を発して振動させていくというもの。
 例えばムーラダーラには「ウ」をぶつけ、丹田には「オ」を、アナハタには「ア」を、ビシュナダには「エ」を、アジナーには「イ」を、サハスララには「ン」で振動させる。
 ブロックが大きい箇所はそれに対応する音がうまく出ないのだそうだ。

 「現代人はみんなのどが絞まってるんですよ。みんなスーツ着てる人を見て安心するのは、あれはネクタイで首を絞めてるからだね。だから自分を抑圧してますよって言うサインなんだ。僕みたいなこんな格好でそとふらふらしてたら、何されるかわからないって思うでしょ?(笑)でもスーツにネクタイだと自分で首を絞め

<以下、記事消滅>

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 2009-09-08

 ナンシー・ウッド著 「今日は死ぬのにもってこいの日」(原題:MANY WINTERS)より

 ね、ほら、わかるよね
 いろんな人がここへやってくる。そして俺たちの生き方の秘密を知りたがる。
 やたら質問するのだけれど、答えは聞くまでもなく、連中の頭の中でもうできてるんだ。
 俺たちの子供は素晴らしいというけれど、本当のことを言うと、可哀想だと思ってる。
 さかんにあたりを見まわしても、やつらに見えるものと言えば、それは埃だけさ。
 俺たちのダンスを見に来るのはいいが、写真を撮ろうと、いつもキョロキョロしている。
 連中は俺たちのことを知ろうと思って、俺たちの家へ入ってくるけれど、時間は五分しかないと言う。
 土と藁でできている俺たちの家は、彼らから見ると妙チキリンなんだよね。
 だからここに住んでいなくてよかった、と本当は思っているわけ。
 そのくせ、俺たちが究極の理解への鍵を握っているんじゃないかと疑ってる。
 俺たちの人生の秘密を見つけ出そうとすれば、永遠の時があっても、連中には足りないな。たとえみつけたとしても、やつらはそれを信じないだろうよ
 

 たくさんの冬を
 わたしは生きてきた
 終わりのない夏と戯れ、疲れきった大地を
 最初の雪が降ってきて覆いつくした
 時のそもそもの始まりから
 たくさんの冬
 わたしは山々の頂に水を捕らえて放さなかった、
 月と太陽がみごとな円環を創り出した大地の始まり以来
 まだ冷めやらぬ山々の頂に
  
 たくさんの冬
 わたしは星たちを至るところに吹き飛ばした
 それぞれの星が落ち行く先を
 冬の陽の路に沿って
 海へと川が流れゆくように
 たくさんの冬
 木々はわたしたちとともに寝た
 獣たちはわたしの胸の上を歩き回り
 鳥たちも夜寒の辛さを和らげようと
 わたしの火のそばに近づいてきた

 たくさんの冬
 わたしは孤独な月を友として生きてきた
 その月があとを追う灼熱の太陽は
 大地を冬から解き放つ前
 わたしたちの感謝の歌に聴き入った
 たくさんの冬を
 わたしは生きてきた
 解けてゆく雪の中から、ひ弱な花が現れて
 わたしは春の精です、と言った
 時のそもそもの始まりから

 冬の木は
 まるで親父の顔の皺みたいだ
 それとも
 わたしがまだ若くて
 悟りへの明快な一本道を
 探しあぐねていた頃に通ろうとした
 たくさんの小道みたいかな?
 一本一本の枝には
 さらに小さな枝があり
 辿っていくと
 いろんな結末、いろんな悲しみが待っていた
 枝は、わたしの体重を支えるには
 どれもこれもひ弱すぎて折れてしまい
 まごついてわたしは下に落っこちた
 冬、
 たくさんの小道のように
 絡まりあった裸の枝を
 空に向かって高々と伸ばしている木を見た
 だが道は
 それぞれが目的をもっていて
 その木の根っこに帰ろうとしていた

 若いとき、わたしは何も知らなかった
 背はすごく高かったが、中身は育っていなかった
 そこである日わたしは山へ行った
 すこしだけ死んでみようと思ったのだ
 これは部族の者が、浄めのためにやるやり方だった
 わたしの口は開き
 わたしの叫びは風の上に落ちて、すぐに吹き払われてしまった
 目は何ものも見なかった
 すると、太陽はわたしの無知に目隠しをした
 わたしの耳は沈黙を聞くばかり
 すると、川はわたしを歌の中に溺れさせた
 わたしの手は空気を押しとどめた
 すると、火はわたしを燃やしつくした
 とうとうわたしは無になってしまった
 ある日目を覚ました
 真実を言いなさい、と風が言った
 そこでわたしは言った、怖くてたまりませんと
 そのわけが知りたければこれを見なさい、と太陽が言った
 そしてわたしは、村が変貌してゆく様を見た
 音楽を聞きなさい、と川が言った
 そしてわたしは、わたしの部族の者が笑っているのを聞いた
 暖かみを感じなさい、と火が言った
 そこでわたしは子供たちを抱えた
 自分が真に誰だかを知りなさい、と精霊が言った
 そこでわたしは、わたしは人間です、と言った


ダライ·ラマは、母親について何と言いました

 わたしが憶えている手は
 殺してごめんなと謝りながら
 木を切っていた
 親父の手
 わたしが憶えている手は
 花というものの目的を教えてくれた
 お袋の手
 わたしが憶えている手は
 いつか鹿を殺す日の稽古に
 野うさぎを殺していた
 兄貴の手
 わたしが憶えている手は
 新しく生え出る木を見つけようと
 土をほじくっていた
 姉貴の手
 わたしが憶えている手は
 わたしの人生のいただきに行く道を教えてくれた 
 爺さまの手

 たぶん、君自身になるってことは
 泣き叫ぶ嵐の中に、君独りいるってことだ
 そのとき君が求めるすべては
 人の焚き火に手をかざすことだけ 

 わたしたちは重要じゃない
 わたしたちの人生とは、それでもって
 永続する思考を引っ張りまわしている、たんなる糸
 思考はそのようにして、時を貫き旅をする

 

 人生について
 わたしはおまえに何を語ってやれるだろう?
 それは得がたく、そして美しいものだ
 仮装して、だまくらかしながら、それは現れる
 大笑いしながら、現れることもある
 人生について
 わたしはおまえに何を語ってやれるだろう?
 なんにも
 わたしの答えは、わたしだけのもの
 おまえには通用しないだろう
 樹木と同じで、わたしたちは共通の根を持っている
 ところがその育ち方の違うこと!

 おまえは後戻りはできない
 わたしたちの道が
 「昨日」に架ける橋だと信じているなら
 おまえはここで生きることはできない
 「今」は過去のやり方とは違うのだ
 「今」は美しい
 なぜなら、この世で大事なもののすべては
 わたしたちに至る道を見つけてしまったからだ

  わたしたちにはいつも何らかの宗教があった。常に神を信じて、わたしたちのやり方で、神を崇めた。神様というのはどこか天上の雲の上にいる人間だよ、と教えられたのは、スペイン人がやってきた1598年以降だった。そしてこういう話しも聞かされた。なんでもこの神には息子がいて、実際にこの地上で生きようとやってきた。そしてわたしたちを救うために、酷い殺され方をしたのだと。だからわたしたちは、彼を崇めなければならないというのだ。

 その当時こういった考えは、奇妙だった。わたしたちにとっては、神は岩の中、木の中、空の中、至るところに偏在した。太陽は私の父だったし、大地は私たちの母、月や星はわたしたちの兄弟姉妹だった。だからスペイン人が来るまでは、神を人間としてみたことはなかった� �だ。それから、長い茶色の衣を着た神父が、十字架形の杖、祈祷書、水やなにかをもってそこいらをうろつき、やたらその水をわたしたちの頭に注ぎかけるのだった。そして言うことには、もうわたしたちは彼らの宗教の信徒だ、なぜなら今まさに洗礼を済ませたところだからだと。わたしの仲間には、神父たちを神さまだと思い込んでいる者もあった。逆に、彼らの宗教に最後まで抵抗する者もいた。わたしたちはその宗教が怖かったからだ。ある者は鞭打たれ、ある者は殺された。

 結局わたしたちが決めたのは、こういうことだった。すなわち、外見にはどんな教会へ行こうと大差はない。わたしたちの教会は、常にわたしたち自身の内にあった。大事なのはこっちの教会だ。外の教会がみな崩れ落ちても、こっちはずっと長� �間残るだろうからだ。

 今日は死ぬのにもってこいの日だ
 生きているものすべてが、わたしと呼吸を合わせている
 すべての声が、わたしの中で合唱している
 すべての美が、わたしの目の中で休もうとしてやってきた
 あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった
 今日は死ぬのにもってこいの日だ
 わたしの土地は、わたしを静かに取り巻いている
 わたしの畑は、もう耕されることはない 
 わたしの家は、笑い声に満ちている
 子供たちは、うちに帰ってきた
 そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ

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 2009-09-03

引き続き『イーグルに訊け〜インディアンに学ぶ人生哲学〜』天外伺朗 衛藤信之著 2003年 飛鳥新社 より

  奇蹟は自分の中にある

  インディアンには、「今生きていることは奇蹟なのだ」と言う考えがしっかり残っています。だからこそ、彼らは自然に宿る神をとても強く意識して、いつも感謝の祈りを捧げているのです。彼らの笑顔がとびきり美しいのは、まさにいつも死を意識し、生きていることへの感謝が表情に表れているからなのだと思います。

 ある長老は「奇蹟は特別なところにあるのではない」と言って、自分の胸を指して静かに笑いました。そして、「感謝して子供と出会いなさい」と教えてくれたのです。彼らは今日と言う日に出会えたことは、まさにプレゼントであることを知っており、そのことに深い感謝を捧げることが出来るのです。

 彼らは朝起きると、まず生きて� ��ることの奇蹟をグレートスピリットに感謝して、一日を始めます。私たち現代人から見ればとても質素な暮らしの中で、朝から晩まで感謝の祈りを捧げます。
 「今日も太陽が昇ったことに感謝します」「今朝も目覚めたことに感謝します」に始まり、丸太を割ったりとうもろこしの粉をひいたりしながら、「今日一日働けることに感謝します」。そして、子供たちが起きたら「今日も子供たちに出会えて感謝します」と、祈るわけです。

 インディアンには感謝の儀式がたくさんありますが、そもそも彼らの生活そのものが感謝を捧げる儀式なのです。
 ちなみに、アメリカの感謝祭は、もともとはインディアンの風習から生まれたと言われていますが、とにかく彼らは、ありとあらゆることに喜びを見出しているのです。

 言われてみれば確かに、私たちは、まさに奇蹟のただなかに生きていると言えます。今日も太陽が地平線から昇る奇跡。季節が繰り返される奇跡。家族と出会えた奇跡。仲間がいる奇跡。仕事がある奇跡。明日も生きていることが出来る奇跡。今日も生き抜いた奇跡・・・。

 けれど私たちにとっては、水は蛇口をひねれば出てくるのがあたりまえで、交通機関は時間に正確に到着してあたりまえで、約束は守られてあたりまえで、欲しいものもお金を出したら手に入るのが当たり前です。
 そしてあたりまえだと思っていることがうまくいかないと、そのマイナスにばかり焦点を当てて、「なぜうまくいかないんだ」と腹をたててしまいます。頭で考えた計画が思い通りに進まないと本当にイライラしてしまうのです。
 すべてが当たり前だと思っている私たちと、「ない」というところから出発し、今生きていることはかけがえなのないプレゼントだと考えている彼らとでは、人生の味わいの深さがまるで違うと思います。

 幸せになる能力とは

 自分の身に起きる出来事をどう受け止めるかということは、心理学にも通じる大切な指摘だと思います。
 私の尊敬している心理学者アブラハム・マズローによれば、「自己実現」というのは、リッチなレストランで豪遊するというステイタスではなく、奥さんが作った質素なお弁当を心から味わえるようになることを意味しています。
 一方、日本では自己実現セミナーと銘打って、「どうしたらお金を稼げるか」「成功するか」「社長になれるか」「大きな家に住めるか」と言うテーマばかりが多くて、私は強い違和感を覚えました。自分をとりまく状況が変わらないと幸せになれないという強迫観念があまりにも強いのです。
 
 今私たちに本当に足りないのは、自信なんだと思います。自信がないからこそ役職や名誉や大きな家といった外側の条件にこだわり、いつも社長として扱われたいとか、えらい先生として接してほしいなどと思い、そうでないと不機嫌になってしまう。
 そして自信がないからこそ、他人と自分を比較してしまうのです。ある奥さんがノイローゼになったのは、隣の人が宝くじに当たったからでした。

 隣の席の同僚が昇進した、友人が家を買った、車を買い換えた、隣の子供が有名校に合格した・・・そして友人のブランドのバックひとつにすら嫉妬してしまい、心の青空に分厚い暗雲が垂れ込めてしまいます。経済的に成功を収め、競争に勝ち、他人に一目置かれないと、幸せにはなれないと思ってしのまうのです。
 けれど本当は、どんな扱いを受けても、どんな環境にあっても、その中でそこそこ楽しめるというのが幸せになる能力だと思います。成功者や自己実現者というのは、ふつう考えられているのとは反対で、足りない中で足りていると気づくことなのです。

 必要なものはそれを必要とする人のところにあればいい

 言葉を変えるなら、現代社会に生きている私たちのほとんどが、自分の中に閉じこもってしまっているのです。だから、いつも人と比較して、あの人より物が少ないとか多いとか、そういうところで自分を確認していくしかない。カウンセリングに来られる方たちの多くは、そういう人たちであるように感じられます。
 けれど、インディアンは個人と言う枠を越えている部分がかなりあって、そのひとつが「ギブアウェイ(人にあげる)」という風習です。
 人生の節目や儀式のときに、彼らは持ち物をみんなに与えつくします。インディアンの長老は、困っている人がいるとすぐに自分のものをあげてしまいますから、村では一番貧乏です。しかし、彼らにとって、物質的な豊かさはそれほど重要ではありません。
 ある長老は私にこう言いました。

 「必要なものは、それを必要とするところにあればいい。母なる大地から恵みをいただいて、わしらは生きている。それなのに、すべてのひとが必要もないのに人と同じものを持ちたがるから、母なる大地は傷ついていく。やがて訪れる大浄化の前に、人々はそのことに気づかなければならない

 自分の持ち物を積極的に手放していくという発想はおもしろいなあと感じます。
 実際、彼らは物自体に価値を見出しているというより、物にまつわるストーリーを大切にしているように思います。
 例えば、シャーマンに助けられた男の子が、お礼としてきれいな小石をプレゼントしたとします。すると、その男の子とのかかわりというストーリーがあるために、小石がただの小石ではなくなって、大切にしなければならない何かになるのです。
 私がインディアンの村から帰るときにも、彼らは必ず贈り物をくれました。ビーズでつくった飾りなど、ささやかなものですが、思い出がいっぱい詰まったプレゼントです。そこで、私も彼らに自分にとって大切な小物を渡しました。

 インデイアンの発想では、物は使ってもらって初めて生きた物になります。彼らは与えることで、自分の中でストックしていた何かが新たな歴史を刻み始めることを知っているからです。だから、インディアンはは大切なものほど、それが持っている歴史やストーリーと一緒に手放すのです。
 あるインディアンは、「白人は、自分では使わないものをたくさんため込んでいる。彼らのガレージのなかは死んだものでいっぱいだ。だから、やつらの目は死んでいるのさ」と言っていました。

 私の友人が親しくしていたインディアンの長老は、奥さんを亡くしたとき、形見の品をすべて村人に配ってしまいました。友人が「ひとつくらいお手元に置いておいたらいかがですか」と聞いたところ、長老は静かな微笑を浮かべて「残して箱の中にしまっておいても年に数回しか眺めないだろう。それより、誰かが身につけてくれたら、その人に会うたびに『今日はあいつに五回も会ったぞ』と思えるじゃないか」と言ったそうです。
 確かに、奥さんのジュエリーを身につけた女の人が、「長老、これいかが」なんて食べ物を持ってきてくれます。その食事を作ったフライパンも、奥さんがむかし料理の腕をふるったものだったりします。村人たちが奥さんの形見を生かしてくれることで、長老は奥さんの優しさに再び出会えるわけです。

 日本人は、蓄えることこそが財産と考えがちです。でも彼らにとってみれば、使うことこそが物を生かすことなのです。そして、自分が誰かに与えたものを村中の人が使ってくれれば、それこそが財産なわけです。物は人に与えると手元からなくなりますが、その代わり、自分の心は満たされる。インディアンたちは、それをちゃんと知っているのです。

 そういう発想で生きるなら、実は物はそんなにたくさんはいら ないのだ、ということに気づきます。インディアンならみんなで順番に仲良く使っているものを、私たちは当面必要なくても、とりあえず全員がひとつづつ所有しておく。だから、そういう文化では地球から搾取する量がとても多くなってしまうのです。

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 2009-09-02

 引き続き『イーグルに訊け〜インディアンに学ぶ人生哲学〜』天外伺朗 衛藤信之著 2003年 飛鳥新社 より

  スウエットロッジ

  母なる大地というイメージは、インディアンの世界観の根底に脈々と流れています。やはり重要な儀式のひとつであるスウエットロッジにも、そのイメージは強く投影されています。
 そもそも、スウエットロッジを指すラコタ語の「イニィプー」という言葉自体、子宮を意味していますし、ロッジの形もおわんを伏せたようなドーム型で、子宮を象徴しています。母なる大地の子宮に戻り、生まれると言う疑似体験をする点で、スウエットロッジは浄化と再生の儀式なのです。

 スウエットロッジは、火、木、水、石の四要素が結合した儀式で、肉体と魂の浄化のために行われます。まず、竹や柳の枝でドーム型の骨格を作り、周りをビニールや毛布で覆います。そして、かたわらのたき火で焼いた岩をテントの中にどんどん運び入れて、熱気をこもらせるのです。
 よく焼けた石は透明な赤に輝いていて、まるで地球の始まりを連想させます。石の上に聖なるタバコをまいたり、薬草で編んだひもでふれると、テントの中には芳しい香りが漂います。
 さらにメディスンマンが石に水をかけると、すさまじい蒸気がテントに満ちて、ちょうどサウナのようになります。そんな中、人々は創造主、あらゆる生き物、祖先、地球に感謝の祈りを捧げるのです。

 私が初めて参加したスウエットロッジは、長野の穂高養生園でマリリン・ヤングバードの主導で行われたものでした。
 その時は、30人くらいの参加者の多くがインディアンフリークの人たちで、腰布をまいたり羽飾りをつけたりといったインディアンの衣装を着ていました。私は子供時代にインディアンの真似をしていたことを思い出して、「みんないい年して、なぜあんな格好をしているのだろう」などと思っていました。

 セレモニーはマリリンの祈りから始まりました。
 「太陽のおじいちゃん、月のおばあちゃん、いつも見守っていてくれて、ありがとう・・・」
 とても単純な祈りの言葉で、私は正直なところ、「まるで幼稚園だな」と思っていたのです。
 ところが聴いているうちに、突然私の目に、なぜか涙が溢れ出しました。よくわからないけれど、とても強い宗教的な力をメディスンウーマンが発揮しているようでした。
 そのときは寝そべると三人でいっぱいになるくらいのテントに二十人近く入り、すし詰め状態でした。少し暑い程度におさえるマイルドなスウエットロッジもありますが、そのときの暑さはサウナの比ではなく、息を吸うと肺が焼けただれるかと思うほどでした。苦しさのあまり絶叫する人や、胸や腹にやけどを負う人までいたのです。
 そんな中、マリリンの祈りが響きました。

 「さあ、あなたは、母なる大地の子宮に戻ってきました。温かい子宮、あなたを優しく包んでくれる子宮。もう何の心配もいりませんよ。ほら、耳を澄ませば、お母さんの心臓の鼓動が聴こえるでしょう。あなたはかけがえのない命。あなたはお母さんの喜び。とても大切な子・・・

 すると驚いたことに、半数くらいの男たちが、子供のように声を上げておいおい泣き出したのです。

 母なる大地の子宮に包まれる

  私はあまりの暑さをしのぐため、呼吸法やさまざまなテクニックを実践することに気をとられていたので冷静でしたが、その後何年かして瞑想の実習が進むうちに、参加者が導かれる意識状態がわかったような気がしました 。
 深い瞑想状態に入り、宇宙との一体感を感じられるようになると、涙が出てきて、母親の胎内にいたときのような感覚を思い起こさせる不思議な体験をすることがあります。

 私が思い出すのは、チベット密教のトレーニングを受けたときのことです。オレンジ色の僧服を着た、いかめしいお坊さんが、瞑想を指導しながらしきりに母親のことを話したのです。

 「あなたが生まれたとき、お母さんはどうしましたか」「お腹がすいたときにおっぱいをくれたじゃありませんか」「おむつが濡れて泣いてしまったら、すぐ取り替えてくれたでしょう」「二十四時間あなたの世話をしてくれたでしょう」とか、ひとつひとつ、本当に事細かにあげていくのです。
 私はそのとき、「どうしてそんなわかりきったことをいつまでも話し続けるのだろう」と不思議に思っていたのですが、その後ふと気づきました。私たちは母親を通して生まれてくるから、母親の愛を思い出すことによって仏の慈悲を実感できるようになるのではないかと

 要するに、私たちの苦しみの根源には、宇宙から切り離されたという感覚があるのです。もともと母親の胎内にいたときは、母親を通して宇宙とつながっている感覚があるのに、生まれた瞬間、へその緒を切られて、母親から離されると同時に、宇宙からも切り離されたように感じてしまいます。私はそれを「セパレーション感覚」と呼んでいます。
 そしてさまざまな体験を積みながら、大いなる存在、宇宙、神、仏といった、自分を越えたものに愛されていることに気づくことが、癒しであり、意識の成長であると思うのです。

 私たちはみんな、母親の子宮から出て、人生の苦しみを体験します。そして、「土に還る」という表現のように、最後に母なる大地の子宮に戻っていくのです。ですから、私は大いな存在につながるということを、再び母親とへその緒で結ばれると言うイメージに見立てて、「宇宙の根っこにつながる」と表現しています。
 母なる大地の子宮であるスウエットロッジは、熱気の力を借りて心の鎧を一気に脱がせ、そういう人間の生きるプロセスを短時間で思い出させてくれるのです。スウエットロッジで子供のように泣き出す大人たちは、みんな無意識のうちにそのことがわかったのだと思います。

 【世界とのつながりを取り戻す】  衛藤

 世界内存在クライシス

 確かに、インディアンが儀式の中で母なる地球とのつながりを強調するのは、人間の心理にとって母親は大いなる存在の象徴であり、根源だからでしょう。
 私たちは母親を通してこの世に生まれてきたのですし、誰もみんなかつては幼い子供だったことがあり、その頃は自分を世話してくれる母親が世界のすべてです。
 だから、子供の頃泣いても騒いでもお母さんが抱き上げてくれなかったり、しょっちゅう「うるさい」と怒鳴られていたりすると、自分は価値ある存在だとか、生まれてきてよかったと思えなくなってしまう。そしてそれが心理的なトラウマになってしまうのです。

 私のもとには、母親の愛情を充分受け取れなかったことで心に傷を負い、大人になってからカウンセリングにいらっしゃる方がたくさんいます。しかし、根本的には、母親に愛されたいと言う願望は、現実の母親との関係と言うより、自分を越えた大いなる何かとつながっていたいということの表れなのです。
 ですから、逆に言えば、自分の母親とのラインは絶たれてしまっていても、自分が大いなる存在に守られていること、つまり母なる自然に生かされていることに気づければ、心の安定が得られるのです。
 もちろん、母親とは私たちを生かしている大いなる自然のひとつの現れです。しかし、現実の母親をすべてと感じてしまっていると、特に親子関係にトラブルがある場合、生きるのが苦しくなってしまうのです。

 私はそれを「世界内存在クライシス」と呼んでいるのですが、実は私たちがあたりまえのように食べているご飯も、本当は誰かが作り、誰かが運び、誰かが売ってくれたおかげで、私たちはそれを口にすることができます。服でも靴でも、誰かがいてくれたから、身に着けることができるのに、その関係性がみえなくなっているのです。

 自然は語りかけてくれます。
 「お前はここに存在していいんだよ。私たちのなかから生まれた子供なのだから、安心してここにいなさい」と。そう、自然は「あなたがいい子にしているから」「あなたに学歴があるから」「あなたが立派だから」rと差別はしません。
 自然の一部として生まれた私たちは、それだけで存在価値があり、自然はそのことを教えてくれます。

 「あらゆるものがつながっている。私たちがこの命の織物を織ったのではない。私たちはその中の一本に過ぎないのだ」(シアトル酋長)

 自然から離れ、自分の存在価値を認めてくれるものがなくなると人は孤独を感じるのかもしれません。
 だからそういうことに本当に気づければ、私たちは本来、決して一人ではないことがわかる。自分は愛されていない、自分は価値がない、意味がない、自分なんか生まれてこなければよかったって思う人たちは、そういう世界とのつながりを見失っているのだと思います。

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 2009-09-01

 引き続き『イーグルに訊け〜インディアンに学ぶ人生哲学〜』2003年 飛鳥新社 より

 五番目は「尊重」です。

 これは「平等」と言う特徴とも関係するのですが、インディアンは他人の話を尊重しますし、他人の立場を尊重するということを非常に大切に考えていますね。
 彼らは年齢や性別や身分で差別することが一切なく、すべての人を尊重します。話し合いのときには、それこそしゃべることができるかどうかという子供にまで、一人前の発言権があるのです。
 みんなで輪になって話し合うときは、発言する人はイーグルの羽を持つことになっているのですが、羽を持っている間は他の人は絶対にその言葉をさえぎったり邪魔してはいけないのです。
 ラコタ族の長老ノーブル・レッド・マンは

 「白人が民主主義を発明したのではない。神が民主主義を発明したんだ

 と述べていますが、インディアンと付き合っていると、彼らの民主制は近代国家の民主主義よりはるかに平等観が強く、本質的だと感じます。
 あとで詳しく述べますが、アメリカと言う国家が出来るとき、このインディアンの社会制度が大幅に取り入れられました。人々は民主主義のルーツはギリシャだと考えていますが、それよりはるかに進んだシステムがインディアン社会の中にあったのです。そしてそれはさらにフランス革命に影響を与え、近代文明の成立に少なからぬ影響を与えたと考えられています。

 六番目は「ギブアウェイ精神」です


 これは他人が必要とする時に、自分の持ち物を人々に分かち与える風習です。
 インディアンの村では、とても貧しい人でも、何かあるたびに他人に惜しみなく贈り物をするのです。昔の日本の田舎では、帰省すると山のようにおみやげを持たせてくれたものですが、その雰囲気に似ているところがあります。

 「分かち合えば分かち合うほど、神はわしらに分かち合うためのものを与えてくれる。わしらは他人と分かち合うとき、本当は神とも分かち合っているんだ

 と述べています。
 しばらくインディアンと一緒に生活していると、たちまち身の回りにこまごまとしたものが集まってしまうのは、この最たるものです。また、我々がレストランで食事をしていると、何人ものインディアンが食事をたかりにやってきたりします。ギブアウェイの精神からくるものなのですが、最初は少しびっくりします。
 所有の概念が強く、個人の意識が高い私らにとっては、正直なところ少し戸惑うところもあるのですが、慣れてくれば結構ここちよい風習だと思います。

 七番目は「平和」です。

 彼らは心の平安ということを、非常に大切に考えています。ラコタ族のブラック・エルクは、1948年にこんなことを言っています。

 「いちばん重要な、最初の平和は、人の魂の中に生まれる。人間が宇宙やそのすべての力との間に、つながりや一体感を見出せたとき、その平和が生まれるのだ。

 宇宙の中心にはワカンタンカ(創造主)が住まい、しかもこの中心はいたるところにあって、それはわしらひとりひとりの内部にもある、と理解したときにな。これこそが真実の平和なのだ。ほかの平和はすべ� �、この真実の平和の似姿にすぎん。

 二番目の平和というのは、二人の人間の間に生まれる。そして三番目の平和が、ふたつの部族間にあらわれる。

 しかしわしがしばしば言うように、人の魂の中に生まれるものこそが真実の平和なのだから、その平和をまず知っておかない限り、部族間の平和などとうてい実現せぬということを、なによりも理解しなくてはならん」

 ブラック・エルクは、次のようなことを伝えたいのです。宇宙の中心は、宇宙のいたるところに同時に存在しているということ、つまり、私たちの一人一人の身体の中にも宇宙の中心があって、ワカンタンカが住まっているということ。そして、それぞれの人が自分の中のワカンタンカとつながることが、真の平和であるということ。

 ブラック� �エルクが述べていることは、般若心経の教えや、あらゆる主教や哲学の原点となる世界観(永遠の哲学)と、まったく同じです。その意味で、彼らの宇宙観はすばらしく奥深く、しかも非常に近代的なのです。

 八番目は「循環」です。

 自然とは本来、すべてが形を変えて移り変わり、全体のバランスの中で息づいているものです。
 動物の排泄物や死体は土壌で分解され、それをもとに植物が生長し、その植物を草食動物が食べ、それを肉食動物が食べ、そして再び動物が土に還ります。それが自然の仕組みであり、インディアンはそういった全体の循環のようなものを、強く意識しているのです。

 とはいえ、彼らには自然本位とかエコロジーとかいう発想はありません。というのも、彼らは生き方そのものがまさに自然と一体になっているからです。だから、水の中にすむ魚に水という概念がないのと同じで、あえて人間と自然とを切り離して考えることがないわけです。
 自分と切り離された自然、あるいは客体としての自然と言う発想がないというのは、私たちから見ると、むしろ意表をつかれる視点です。

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 2009-08-31

  『イーグルに訊け〜インディアンに学ぶ人生哲学〜』2003年 飛鳥新社 より

  アメリカインディアンとつきあううちに、私はその世界観に8つの特徴があることに気づきました。
  
まず 一番目は「他力」です。
 他力と言うのはもともと仏教用語で、「すべての生きとし生けるものを救う」という阿弥陀の本願を信じ、それにゆだねなさい、と言う意味です。そして、つまらないことにくよくよ悩んだり、いたずらに未来に不安を感じたり、思い通りにならない周囲の状況にイライラするのをやめて、もっと大きな力に身をゆだねるという生き方を説く言葉です。インディアンたちの生き方には、もちろん阿弥陀仏などという概念はありませんが、本質的にはまさに他力そのものなのです。

 彼らは皆、この世のありとあらゆるものに創造主ワカンタンカがかかわっていると信じています。キリスト教の聖書には、神は七日間で世界を創造したと書かれていますが、彼らにしてみれば世界の創造はまだ終わっていません。
 ワカンタンカは今も世界を創造し続けているし、人間もその移り行く世界の一部であり、一人一人は「創造主の子供」なのです。

 ですから自分の頭で「何をしたい」「何をしなければ」と考えるのは浅はかなこということになります。すべてはワカンタンカのはからいによって生じるわけですから、エゴを手放してワカンタンカの意志にゆだねて生きることが大切なのです。

 「イーグルに訊け」というのは、そんな彼らの世界観を表現する、とても象徴的な言葉だと思います。先の見通しがつかないとき、彼らはよく、イーグルなどの行動から創造主の意思を読み取ろうとします。
 なぜイーグルかと言えば、イーグルは空高く飛んで地上を俯瞰しますから「創造主の目」を意味すると信じられているのです。

 状況を観察し、分析して、もっとも効率のよい方法を考え出すことに慣れている私たちからみれば、なんともいい加減で心細い方法に思えるのですが、彼らと過ごしていると、確かに「結局はなるようになってしまう」のです。
 
 二番目は「感謝」です
 彼らと暮らしていると、彼らがありとあらゆるものに感謝の祈りをささげることに感銘を受けます。
 創造主ワカンタンカに始まり、スピリット、祖先、太陽、月、大地、石、水、そして地球に存在するすべての生き物に感謝することが、インディアンの主な祈りです。

 彼らにはたくさんのセレモニーがあり、そこで心身や人間関係を癒したり、大地とのつながりを回復したりしているのですが、どんなセレモニーにも必ず「今日も一日、すばらしい日をいただいてありがとう」というように、徹底的に感謝の言葉を述べるのです。

 考えてみれば、今日も命をつなぎ、生きる糧を与えられていることは素晴らしいことなのに、私たちはそれをあらためて感じられずに、すぐに不満や不安でいっぱいになってしまいます。その意味で、彼らは当たり前の日々の尊さを思い出させてくれますし、幸せに生きる道を知� ��ているのだと思います。

 三番目は「受容」です。
 これは、身の回りにあるものや自分の身に起きることをすべて創造主からのプレゼントとみなし、全部を受け入れていこうという思想で、西洋を中心とする近代文明的な発想とは正反対です。私たちは現状の問題点を鋭く追及・分析して、それを改善することにより、よりよい社会が構築できると信じています。つまり、常に外に働きかける、積極的な姿勢が求められているのです。

 しかしながら、外部を変えようと言う姿勢は、とかく自己中心的になりやすく、また思ったようにならないと、不平不満につながりやすい、という問題点があります。その結果、暴走したエゴが激しくぶつかり合う、極端な競争社会が出現してしまいました。

 それにたいして「受容」というのは、どんな状況も受け入れてしま� ��ため、ある意味ではとても受動的で東洋的な感じがします。外側に働きかけるというよりは、自分自身の内面を深く追求する、という姿勢です。したがって不平不満を抱きにくく、こころは常に平安に満たされています。
 そのような人が増えてくると、争いが減り、おだやかな社会になる代わりに、経済の成長や産業の発展などはあまり望めなくなっていくでしょう。実は、いまから私たちが向かっていく次世代の社会はその様相が極めて強いだろうと私は考えています。

 ただし「受容」を中心とする受動的な社会は、積極的な社会から攻撃を受けるときわめてもろいことも事実です。そのため、世界各地で先住民の文化は近代文明にずたずたに蹂躙された悲しい歴史があります。

 四番目は「平等観」です。
 インディアンは、この世に存在するすべては創造主の子供であると考えており、その発想から徹底した平等観が生まれています。
 セレモニーでは、祈りの最後に「ミタクオヤシン」と唱えるのですが(ラコタ族、ダコタ族、ナコタ族など)、英語に訳すと「オール・レラティブズ」といった意味になります。それは、私たちが縁しているすべての存在を思い起こし、感謝の気持ちを表す言葉なのです。
 インディアンにとって、「オール・レラティブズ」すなわち「あらゆる親戚」とは、創造主から生まれたものすべてであり、この世のありとあらゆるものを意味します。ですから、もちろん人間だけではなく、動物、植物、鉱物、水、火といった存在するものすべてが、私たちの親戚であり、きょうだいなのです。
  インデァインは植物を「植物の人々」、木を「立っている人々」、石を「石の人々」、鳥を「空を飛ぶきょうだい」、魚を「水の中を泳ぐきょうだい」、動物を「四つ足のきょうだい」と呼びます。
 
 キリスト教文化が中心のヨーロッパでは、人間を万物の霊長と考えて、一段高い位置においています。それとは対照的に、インディアンたちはすべての生命が同格であり、つながっていると説いています。そして、すべての存在が創造主の前では平等だと考えているのです。
 そのような思想を美しく表現した有名な手紙があります。1853年、シアトル酋長がアメリカ大統領に宛てたものです。彼は手紙の中で、白人が面白半分にバッファローを何千頭も撃ち殺していることにふれ、「動物がいなくなって、何が人間だというのか。もし、すべての動物が地上からいなくなってしまったら、人間は魂のひどい孤独で死んでしまうだろう」と述べています。
 彼の、
 
 「人間が命の糸を編んでいるのではない。人間はその中の一本の繊維に過ぎない

 と言う言葉は、近年ますます輝きを増しており、環境問題を語るときにしばしな引用されています。

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 2009-08-26


  まんだらけで本を売って

  「ホピ的感覚」小原田泰久著
  と
  「癒しの思想」丸橋賢著

  の二冊を買った。

  「癒しの思想」は、歯科医である著者が、現代人に蔓延している歯周病と病む口腔内は、病む社会や自然と切り離して考えることは出来ないことを訴えた本だった。

 現代成人で歯周病の兆候がある人は90パーセントを越える。多くは重度には至ってないので、歯医者に行かなくてもすんでいることも多いと思うのだが、これは普通ではない事態といえる。

 というのは古代の人骨からは歯周病の痕跡が見つかることはきわめて稀であるかららしい。
 現代の歯科学では、虫歯、歯周病は歯についた食べ残し歯垢(プラーク)に発生する細菌によって起こるとされている。しかし、なぜ、現代人の口腔の中でそれが異常に猛威を振るうようになったのかという問題提起が行われている。
 それはどうも単に、ブラッシングが出来てないというような原因だけでもなさそうだという。 

 そして著者の思考は、幼い頃に川魚をとった故郷の川が、みかけは今も美しいが、農薬などの影響で「清らかな死の川」に変貌した事実、そして敗戦ののち異文化のライフスタイルが急激に取り入れられたことにより日本人の生活文化に破壊的な影響が生じたこと、それまでの価値の解体が進行したことなどを駆け巡り、それらすべてが日常的に自分が診察している病んだ口腔と無関係ではないことを認識する。

 ひとつとても面白いと思ったのは、戦後日本に輸入されたのは、アメリカ文化と呼ぶのは正しくはなく、「ニューヨークの文化」であると言う点だった。それは著者がアメリカを広く旅している時に気づいたことだ と言う。

 「日本の伝統的な風景に比べ、新しく出来上がった東京の風景を見るとき、私は愚かにもこれは欧米の影響を受けて成立したものと漠然と理解していた。しかし、衣食住すべてに伝統を重んじるヨーロッパの文化と、現在の東京の文化はあまりにも違いすぎる。私はすぐに自分が誤解していたことに気づいた。東京の風景はアメリカの影響下に形成された文化の象徴であると。アメリカの占領下に成長を遂げてきた日本にとってこれは当然の結果である。

 しかし、私の理解はここでもまた大きく誤っていた。アメリカを、南はフロリダから、北上し経済の中心ニューヨークを経て、北部のボストン、フィラデルフィア等ニューイングランド地方へと旅をするうちに、この誤りに気づいたのである。戦後日 本が受け入れたのは正統のアメリカ文化ではなく、伝統の浅いアメリカの中でも新興勢力であるニューヨークの文化であった。

 このニューヨークの文化とは、アメリカ西部と南部の文化と質を同じくし、ニューイングランド地方の文化とは質を異にしている。(中略)

 同じアメリカでも、ニューヨークに比べ、ニューイングランド地方と呼ばれる北部の、ボストン、フィラデルフィア等の街はまったく別世界である。人々は自由独立の革命を戦ってきた誇りを今も大切にし、街も美しく、道路も清掃が行き届き、身なりも清潔である。家はレンガ造りで、コンクリートがむきだしのビルは建築許可にならない。犯罪も少なく、安心して街を歩くことが出来るし、人々の表情に危険な雰囲気がない。そして、ハーバード大学、� �サチューセッツ工科大学、など有名な大学の集中する学問と教育の都市であり、ボストン美術館、ボストンフィルハーモニーで有名な芸術の都でもある。人々はアンティークを好み、レストランの食器も美しく、料理もおいしい。市民はニューヨークの文化をむしろ蔑視している。」

 この本の初版は1984年、著者の気に入ったニューイングランド地方の文化も様変わりしているかもしれないし、ニューヨークはニューヨークで多くの人種が因習を越えてからみあうような自由な雰囲気があることもまた事実だろう。(行ったことがないので、情報による想像になってしまうが)

 だが、ニューヨークを代表とする、なにがしかの生活スタイルが日本を含め全世界に拡散していることは確かであり、それはニューヨーク文化という よりも、むしろ「非-文化」であるように思う。

 というのは文化と言うのはあくまでも一種の土着性のようなものから生まれるものであり、それゆえにもともと排他性や閉鎖性という「陰性」の性質も持っている。それはその土地に生きることによってはぐくまれるものであるので、外側から進入してそのバランスを壊そうとする力にはおのずから対抗して、異分子を排除する。しかし一方、その土地で生きるために必要な知恵を内包しているものだ。
 「陰性の性質」はこの知恵を守ろうとする働きの一側面と言える。
 
 これに対して資本主義をベースにして全世界に拡散する「ニューヨーク文化」には土着性が希薄だ。
 その土地固有の文化やルール、タブーの代わりに人々を結びつけ、動かせるのは、欲望に基づいた貨幣原理であると言える。
 そこでは大資本が、「文化」のベースとなる衣食住を牛耳るので、例えばニューヨークにはマクドナルドが数100メートルおきに立ち並び(という噂)、また大量生産される「ユニクロ」の衣服をみんなが着る。
 それらのものは安いし、簡単に手に入る。
 だが根本的に、「虚」の存在である。
 「非-文化」には人の生命力を活性化させるような、大地とつながれた力がない。

 僕ならばそれらは、ミヒャエル・エンデの童話「モモ」に登場する「灰色の男たち」の作った文化と呼びたい。灰色の男たちは、人々から時間を盗み、貯蓄させる「時間泥棒」である。 
 
 この「非-文化」にもある利点はあった。
 それは猛烈な勢いで富と物質を貪るその力が、全世界をグローバルに結びつけたということだろう。
 資本主義経済は歴史を加速化させるブースターの役割をした。
 しかし、世界を結びつける情報網や、交通経路と引き換えに、膨大な自然が破壊され犠牲になったことも事実だ。

 それは今話題の覚醒剤のようなものである。
 覚醒剤も一種のブースターだ。
 覚醒剤によって、人によってはクリエイティブな創作や、インスピレーションがひらめいたり、また寝ないで働けると言うのは事実である。しかし、そのあとには幻覚や妄想など重い後遺症が心身を蝕む。
 現代の「非-文化」による生活は、多くの人がつけをはらわないですむと思っている覚醒剤のようなものだ。
 この構造自体が個人の覚醒剤使用などよりもっと大きな問題をはらんでいると思う。
 だから逆に言えばシャブ的文明の中では、ある種の個人は、シャブでも使わないとやってられないとも言える。
 シャブ的世界を過剰適応することによって乗り切りたいと思う人は、覚醒剤や、また欝や神経症で処方されるSSRIに頼るかもしれないし、またそんな世界を拒否して精神を眠り込ませたいと欲する人はヘロインやアルコールを摂取する。
 そしてこの世界の亀裂やトリック、種明かしを開示するような、LSD、マジックマッシュルームなどは厳重に取り締まられている。
 
 僕は2006年の冬から、春くらいにかけて、原因不明の歯や歯茎の痛みに悩まされた。
 食べ物を噛むとそのあと、ひどいときは10分くらい涙が出るような痛みを感じるのだった。
 それが一月も二月も続くので、精神的にもかなりきつかった。
 歯医者に行ってもなかなか治してもらえないし、その時に玄米食に切り替えようかと考えた。どうもこの異様な痛みはなにかそういったサインであるとしか考えられなかった。
 結局レーザー治療のようなもので、その痛みは治まったんだけど、根本的な理由がわからず、また根本的な治療を受けていないような違和感が今も少し残っている。

 だから歯科医の人が書いたホリスティックな「癒しの思想」ということで、とてもひきつけられたということがある。
 基本的に癒しの本質というのは、ホリスティック(全体的な)ものだろう。
 というのは多くの病というのはホリスティックの反対である、分離から生じると言えるからだ。
 しかし現在の医療は、その分離から生じた、現象としての病という断片のみに視点を集中し、それを除去しようとするために病の本質を癒すことが出来ない。
 抗がん剤という猛毒で、通常の細胞も殺しつつ、がん細胞も殺そうとする発想はその最たるものかもしれない。

 最近では少しづつ心理的なケアと言うことも重要視されるようになりつつある。
 こころのポジティブな保ち方が、病を癒す力になるという考え方もある。
 またここは良質の精神世界と、現行の医療が融合しうるポイントでもある。
 しかし、「癒し」ということを本質的に考えるなら、特にその人が質の高い医療者であろうとするなら、どうしてもこの筆者のように、肉体-社会-自然 というように、それぞれの病がそれぞれの病の原因となっていると言うような視点にまで意識を高める必要が出てくる。
 
 それは「個」の病というのはあり得ず、個の病は即全体の病であると言う視点だ。 
 「個」の病は個を越えた全体とつながるとき、癒されうる可能性を持つ。
 そういう意味で、個の病を個の病としてのみ捉える視点が、すでに「病」を内包してると言えるのだ。
 「私」の病は「あなた」の病であり、「あなた」の病は「私たち」の病である。
 そのような認識に至っときに初めていろいろな糸口が見つかる気がする。
 

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 2009-08-06

  不安から逃げれば逃げるほど、不安は増幅する。

  不安と言う状態を不安がることによって、不安はエンドレスに大きくなる。

  不安という状態を解消させようとリラックスしようとする行為自体が、不安から逃げるという要素を含んでいるために時に役に立たなくなる。

 最終的には、不安に対して開き直るしかない。

 来るなら、来いと言うしかない。

 その時に、それがまったく実体のないものであることがわかる。

 不安から逃げていたことが問題だったのだ。

 逃げていたことが問題だったのだ。

 問題から逃げていたことが問題だったのだ。

 逃げることによって、問題を問題としていたのだ。

 問題を問題視するから逃げていたのだ。

 何も問題はないのなら、 何からも逃げる必要はない。

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 2009-07-13

 

 全国の上映プラネタリウム

 かんぱねるらーっ!と叫びたくなりますね。

 こちらで発見

主題歌

One night 井上ヒロコ

I am waiting for you
探してる月夜の記憶
香る花は打ち寄せる
波のほとり
and nothing but you
残された風をまとい
so I can see the sky
I wanna show you
叫んでる海ぬらす雨
飾られた夢はいつしか砂の中
and don't cry for you 
色づいた瞬間をまとい
so I can see the sky

Melody奏でる刹那を
届けたいだけ小さな手を
包み込むように
あなたさえいれば
風は吹くの?いつか
stand alone…時に迷った夜

Let me tell you
おどけてる水面の光
染められた心は
見えない星の輝き
and I think of you
止められた過去をまとい
so I can see the sky

I am waiting for you and
looking for truth, but not
a sound is heard.
Whenever you need any help
and my voice, please let
me know.
Can I sing for you or cry
for dream ? Let the wind blow.
So I can see the sky.

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 2009-03-19

  許せなければ、そんな自分を許してみる

  ストイックにならずに、あるがままの許せない自分も、許してみる

  僕らは、すでに神に許されている

  許されて生きている

  だから許すのは自然なこと

  自分の中がどろどろしているように見えても

  そんな自分も許せば

  すべて透明な世界に帰り、僕らは我に返る

  神様、許させてくれてありがとう

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