2012年3月29日木曜日

ソフォクレスの『アンティゴネ』


ソフォクレスの『アンティゴネ』

 
 

老人(音楽に合わせて語る)
 だが、ほらそこに、陛下の末のお子さまのハイモンさまがお見えになった。はたして、許嫁のアンティゴネさまの死の決定に、怒っておられるのだろうか、結婚の望みを奪われたことを悲しんで。
 
(ハイモン、町の方からやってくる)

クレオン そのことについてなら、占い師に聞かなくてもすぐに分かる。(ハイモンに対して) どうなのだ。おまえは許嫁に対するわたしの決定を聞いて、怒ってやってきたのか。それとも、わたしが何をしようと、おまえはわたしの味方でいてくれるのか?

ハイモン お父さま、わたしはお父さまの味方です。お父さまはすぐれたそのご見識で、必ずわたしを正しい方向に導いて下さいます。わたしはこれからもお父さまのお導きに従っていきます。わたしの結婚話も、お父さまのすぐれた御指導に比べたら、大した価値はありません。
  
クレオン そうだとも。息子であるおまえはいつもそのような心構えをもって、どんなときでも父の考えにはついてきてくれ。

 人々が自分から生まれた子供たちに素直に育ってほしいと願うのは、まさにこのためなのだ。父親というものは、父に逆らう者を罰するときも、父を助 ける者を誉めるときも、子供たちには自分と同じようにしてほしいのものなのだ。反対に、役立たずの子供をもつことは、自分にとって災難であるばかりか、敵 対する者たちに笑いの種を提供することになる。
 
 ハイモンよ、おまえは女の色香に迷って快楽にうつつを抜かしてはならんぞ。くだらぬ女を嫁になぞしたら、一時の熱もじきにさめて冷たい関係になってしまうことを忘れてはいけない。くだらん人間を身内に抱えるほどの災難はないのだからな。
 
 さあ、あの娘は敵だと思って、唾(つば)でもひっかけてやれ。そして、地獄で結婚しろと送り出してやれ。わたしが捕まえたあの娘は、この国でただ一人の反逆者であることは明らかだ。わたしは国民に対する約束を破るつもりはない。あの娘には死んでもらう。
 
 娘がこれを不服として家族の氏神さまに訴えるのは自由だ。しかし、もしわたしが自分の家族の中に無法者の存在を許すなら、家の外にいる無法者たちを取り締まるどころではなくなってしまう。家族に対して公正に振る舞える者だけが、社会に対しても公正に振る舞えるのだ。
  
 掟を踏みにじり、主人に命令しようと思っているようなものを、わたしは認めるわけには行かない。国が選んだ者なら、それが誰であろうと、その人の言うこ とを聞かねばならないのだ。それが些細なことであっても、それが正しいことであってもなくても、その者の言うことには従うべきなのだ。
  
 そして、このような従順な人間こそ、戦場の飛び交う矢玉の中に置かれても、少しもひるむことなく、忠実で心強い味方であり続ける人間であり、このような人間こそ 、立派に支配されようとするだけでなく、支配する側にまわっても立派に責任を全うできる人間だと、わたしは信じている。

 まったく、上の者の命令に従わないことほど悪いことはないのだ。そのために家は荒れ、国は滅びるのだ。また戦場では、このために味方の軍勢は混乱に陥って敗走することになる。それに対して、人々に勝利をもたらし、多くの人の命を救うのは、命令に服従する心なのだ。
 
 こういうわけだから、わたしたちは決められた掟を大切に守らねばならない。決して一人の女の言いいなりになってはいけないのだ。わたしは、自分が権力の 座から追放されるなら、是非とも男の手によって追放されたいと思っている。それなら、少なくとも、女にも劣るやつと言われずにすむからだ。
 

老人 わたくしがもうろくしてぼけているのでなければ、いま陛下がおっしゃったことは、賢明なお言葉かと存じます。

ハイモン お父さま、神々はわれわれ人間に分別というものを下さいました。これは人間が持っているもので最も価値のあるものです。わ たしには、お父さまがいまおっしゃったことが間違っているなどと言うことは出来ませんし、また言うつもりもありません。しかし、ほかの人間にもまた何かい い考えがあるかも知れません。

 とにかく、わたしは父上のために、人が言ったりしたりしていること、あるいは父上に対する批判的な考えのすべてにいつも目を配っています。何故なら、一般の市民は、あなたが耳にして喜ばないようなことをあなたに面と向かって言うのをはばかるからです。
 
 ところで、わたしの耳には人々が陰で次のように言っているのが聞こえてきたのです。テーバイの国民はあの娘のことをこう言って悲しんでいます。
 
 「あの娘はまったく不当な目にあっている。誰よりも立派なことをしたために、誰よりも惨めな死を迎えようとしている。あの娘は、戦いで倒れた自分の兄を埋葬して、野犬や野鳥に荒らされないようにしたのだから、むしろ輝やかしい栄誉を受けるべきではないか」
 
 陰では秘かにこのようにささやかれているのです。
 
 お父さま、わたしは、何よりもお父さまのしあわせを第一に考えてお話しているのです。いったい、世の子供たちにとって、評判のよい父親を持つことより誇らしいことがあるでしょうか。それは、父親が評判のよい子供を誇らしく思うのと同じことなのです。
 
 ですから、お父さま、お父さまは今おっしゃった考えだけが正しいなどとは思わないで下さい。自分は特別の才覚や弁舌の持ち主であると思っている人間にか ぎって、一皮むけば中身は空っぽだったということがよくあるのです。聡明な人にとっては、人の意見によく耳を傾けて自分の考えを変更するのは、恥でも何で もありません。
 
 ご存じのように、洪水の激流に襲われたときは、たわむことのできる木は枝も失なうことがないのに対して、たわまない木は根こそぎ倒されてしまいます。こ れと同じように、船乗りも、帆綱をきつく張って弛めないでいると、船を転覆させてしまい、あとは逆さまにひっくり返って航海するしかなくなります。ですか ら、さあ、お父さまも、ここはお譲りください。そして、ご機嫌を直して下さい。
 
 というのは、若輩者のわたしにも一言いわせていただければ、生まれつき何でも知っているのが一番いいことではありますが、実際にはそうはまいりません。ですから、いい意見があれば、それにも耳を傾けるのが正しい道であるとわたしは思っているのです。
 

老人 陛下もハイモンさまも、お互いの意見の良いところを取り入れたらよいのではないでしょうか。お二人とも立派なお話をされましたから。

クレオン わたしはこの年になってこんな子供に分別を学ばなければいけないのか。

ハイモン わたしが間違っていると思ったら無視して下さって結構です。ただ、わたしの年齢ではなく、わたしの話の中身をよく考えて下さい。
 
クレオン というと、おまえはわたしに悪人を敬うようにすすめるのか。

ハイモン わたしが悪人を敬えとすすめるわけがありません。

クレオン それでは、なにか? あの娘は悪人ではないとでも言いたいのか。

ハイモン テーバイの国民はだれもあの娘を悪人だとは思っておりません。

クレオン すると、国がわたしに何をすべきか指図するということなのか。

ハイモン おやおや、これはまた子供じみたことをおっしゃる。

クレオン わたしは人の考えに従ってこの国を治めねばならないというのか。

ハイモン 国は一人の人間のものではないのですよ。

クレオン 支配者が国を好きなようにできないとでもいうのか。

ハイモン それなら、あなたは人のいない国の支配者になるといいのです。

クレオン どうやら、こいつは女を助ける気でいるらしい。

ハイモン あなたは女ですか。わたしが心配しているのはあなたなのですよ。(741)

クレオン おお、この親不孝者め、自分の父親に口答えをするとは。(742)

ハイモン 父上が間違いを犯しているのを見かねて申しているのです。(743)

クレオン 自分の国を統治するのが間違いだと言うのか?(744)

ハイモン 神々に対する礼儀を踏みにじっては、統治とは言えません。(745)

クレオン ああ、なさけない。女の言い分に引きずられるとは。(746)

ハイモン わたしが私利私欲から申しているのでないことはお分かりでしょう。(747)


親権を獲得した男性の可能性は何ですか

クレオン おまえの言うことはどれもこれもあの女のためなのだ。(748)

ハイモン いいえ、あなたのため、わたしのため、そしてあの世の神々のためなのです。(749)

クレオン とにかく、あの女が生きておまえと結婚することはない。(750)

ハイモン 彼女は死ぬということですか。それでは、誰かを道連れにしてもよいのですか。(751)

クレオン 親不孝にもほどがある。そんなことを言ってわたしを脅す気か?(752)

ハイモン 愚かな考えに反対するのが、どうして脅すことになるでしょう。(753)

クレオン 愚かなくせして、わたしに説教するとは、けっして許さないぞ。(754)

ハイモン あなたが父でなければ、わたしはあなたを愚か者だと言うしかありません。(755)

クレオン おまえは女の奴隷なのだ。もうわたしにくどくどと話しかけるのはやめてくれ。(756)

ハイモン 自分は言いたいことを言うくせに、人の言うことは聞きたくないとおっしゃるのですか。(757)

クレオン なんだと! 畜生め、覚悟しろ。これだけわたしに好き放題にけちをつけたからには、ただではすまないぞ。さあ、あの憎たらしい女をここへつれてこい。この花婿の目の前でいますぐに殺してやる。

ハイモン いやだ。そんなことは考えてはいけません。あの娘が目の前で殺されるなんてまっぴらです。もう父上にお目にかかることはありません。あなたは気の合う連中と馬鹿をやっておられるといいのです。

(ハイモン、町の方へ去る)

老人 陛下、あの方はひどくお怒りのご様子で、急いで立ち去られました。あの年頃には何か辛いことがあると思い詰めるものでございます。

クレオン 放っておけ。あの子は人間の分を忘れて勝手に思い上がっているのだ。しかし、あの子がどうしようと、二人の娘の命を救うことは出来ないのだ。

老人 本当にあの娘たちを二人とも死刑にするおつもりですか。

クレオン いや、おまえの言うとおりだ、直接手を下さなかったものは助けてやろう。

老人 それで、あの娘はどんなやり方で死刑にするおつもりですか。

クレオン あの娘は、人跡の途絶えたわびしい場所まで引いていって、生きたまま地下の洞窟に閉じこめるのだ。この国がけっして穢れを 受けることがないように、魔よけに必要な食糧だけは置いてくる。娘はそこで自分が崇める唯一の神である、あの世の神に好きなだけ祈るがよい。そうすれば、 死を免れることが出来るかもしれない。しかしそれが叶わぬ時こそ、あの娘は、あの世のことばかり後生大事にしていても仕方がないということを知ることだろ う。
 

老人たち(歌う)
 恋よ、おまえに勝てる者はない。家畜に襲いかかるのも恋、乙女の柔らかな頬を見守るのも恋。海の上にも、けものたちの住む荒れ野にも、おまえはやってく る。不死の神々のもとにも、つかの間の命の人間にも、きっとおまえはやってくる。おまえを心にいだいた者は、たちまち狂う。

 正しい者の心をゆがめ、破滅に導くのもおまえ。父と子のこの争いを引き起こしたのもまたおまえだ。この争いに勝ったのは、明らかに、美しい花嫁の眼差しから生まれた恋心。それはこの世を支配する数々の掟のなかに座をしめる。無敵の女神アフロディテがすべてを操るためだ。


(アンティゴネ、召使に連れられて王宮から出てくる)

老人(音楽に合わせて語る)
 今度はわたしが、これを見て、掟にはずれたことをやりそうだ。すべてのものが眠る部屋へとアンティゴネが向かうさまを見れば、もう涙が流れるのを止められない。

アンティゴネ(歌う)
 見ていてね、わが祖国の市民たち、最後の道を行くわたしを。太陽の光を見るのもこれが最後。あらゆるものを眠らせる地獄の神ハデスが、このわたしを、生きたままアケロンの川岸へ連れていく。花嫁を送る歌も、花嫁を迎える歌も聞かずに、アケロンに嫁いでいく。

老人(音楽に合わせて語る)
 しかし、あの墓穴へ行くおまえは、名誉と称賛に包まれている。つらい病(やまい)にかかったのでも、剣の報いを受けたのでもなく、自分の意志で、生きながら、黄泉の国へ下っていく。それは死すべき人間の世界では例のないこと。

アンティゴネ(歌う)
 フルュギアから来たタンタロスの娘ニオベは、シピュロス山の頂で、この上なく残酷な最期を迎えたという。体を締め付ける蔦(つた)のように、岩が彼女を 覆い尽くした。人々の話では、涙でやつれた彼女の体を雪が覆い尽くした。それでも悲しむ瞳から溢れる涙で、岩山はなおも濡れているという。その人とよく似 た運命でわたしは死んでいく。

老人(音楽に合わせて語る)
 しかし、ニオベは神の血筋を引く女神。我らは死すべき人間の子。とにかく、生前も死後にも、神に等しい運命を授かったと言われるのだから、死んだ女にとっては、大したもの。

アンティゴネ(歌う)
 ああ、からかっているのね。わたしはまだ生きているのよ。お願いだから、わたしをあざ笑うなら、死んでからにしてちょうだい。ああ、わが祖国よ、この国 の富める市民たちよ、ああ、ディルケの泉よ、りっぱな戦車をもつテーバイの神聖な森よ、せめて、あなただけでも見ていてね。

 どんな姿で、どんな掟で、親類縁者に嘆きもされず、石で蓋をした監獄という奇妙な墓に向かったかを。ああ、生きてもいないし死んでもいない不幸なわたしには、あの世にもこの世にも住むところがないのね。

老人たち(歌う)
 おまえは恐いもの知らずのあげくのはてに、正義の高みの玉座にはげしくぶつかったのだ。娘よ、おまえの不幸は父親の罪の報いだ。

アンティゴネ(歌う)
 あなたたちが触れたのは、わたしのいちばん辛い思い出。父とわが一族にのしかかる運命と、名高いラブダコス一族の終わりのない不幸の全てをわたしに思い起こさせたのよ。

 ああ、恐ろしい母の結婚。わたしの母を父に結びつけた結婚は、自分が産んだ息子との結婚だった。その罪深き親から生まれた不幸なわたし。呪われた わたしは、独り身のままで、その人たちのもとに行って共に暮らすのよ。ああ、不幸な結婚をした兄よ、死んだあなたが、生き残ったわたしの命を奪うのよ。

老人たち(歌う)
 死者を尊ぶことは大切だが、権力者は自分に逆らう者を許しはしない。あなたは独りよがりなその気性のために破滅したのだ。

アンティゴネ(歌う)
 友も夫もなく、死出の旅に出ようとしているのに、わたしの不幸を悲しむ者はない。悲しいことに、わたしにはこの太陽の神聖な光をもう二度と見ることはできない。わたしの運命を誰も悲しむものはない。わたしの死を悲しむ友だちもない。
 

クレオン (老人たちに)お前たちも知っておろうが、死を前にした歌や嘆きは、相手をしていると、いつまでもきりが無いぞ。(召使た ちに)さあ、娘を早く連れて行け。そして、わたしが命じたとおりに、洞窟の墓穴へ閉じこめて、そのまま一人にしておくのだ。娘が墓の中で死のうが、生き続 けようが、知ったことではない。そうしておけば、われわれがこの娘のために穢れを受けることはない。とにかく、娘が地上に戻ってくることはもうないのだ。

アンティゴネ ああ、わたしはこれからお墓に行く。それはわたしの花嫁の部屋、地下にある永遠の牢獄。そこでわたしは一族の人たちと出会うのよ。わたしの一族は殆どみんな死に絶えて、今では黄泉の国にいる。人生半ばにして、誰よりも大きな不幸を背負って、わたしは最後に降りていく。


天使を描画する方法

 それでもわたしには夢があるわ。それは、あの世で、お父さまにあたたかく迎えてもらえること。そして、お母さま、あなたにも、お兄さま、あなたにも、喜んで迎えてもらえることよ。
 
 あなたたちが亡くなったとき、わたしはこの手で亡骸を洗い清めて、お墓に供養のお神酒を注いだのだから。わたしが今日こんな目にあっているも、ポリュネイケス、あなたの亡骸に埋葬の儀式を施したからよ。
 
 でも、わたしがあなたを葬ったことは、今でも正しかったと思っています。それは立派な人なら認めてくれるはずよ。
 
 たとえわたしが人の子の親だったとしても、たとえ、自分の夫が死んでその亡骸が朽ち果てていくとしても、わたしは、国の掟に逆らってまで、これほどの重荷を引き受けたりはしなかった。
 
 なぜこんなことを言うかというと、それは、夫は死んでも別の人がいるし、子供が死んでも、別の夫から生むことができるけれど、両親がともにあの世に行ってしまった今では、兄弟はもう二度と生まれてはこないから。
 
 こういう理由から、お兄さま、わたしはあなたを大切に葬ったのよ。でも、それをクレオンは、大それた犯罪だと言うの。そして今、わたしをこうしてつかまえて無理やり連れて行こうとしているのよ。
 
 不幸なわたしは、婚礼の歌も知らず、夫婦の暮らしも子供を育てることも知らずに、娘のままで、こうして友だちからも見捨てられて、死人たちの住む墓穴へ、生きながら引かれていくのよ。
 
 でも、わたしは神さまのどんな掟を破ったと言うの。不幸なわたしにとって、神さまがなんの頼りになるの。わたしはどの神さまを助けに呼べばいいの。神さまを大切にしたあげくに、不敬の罪を受けたのよ。
 
 もちろん、これが神さまの意にそうものだというのなら、わたしは死んで自分の罪を償うわ。でも、罪を犯したのがこの人なら、わたしをひどい目に会わせたこの人こそ、わたしと同じくらいひどい目に会えばいいのよ。
 

老人(音楽に合わせて語る) まだ嵐がこの人の心のなかを吹き荒れている。

クレオン(音楽に合わせて語る) だから言わないことじゃない。召使たちにはこの遅れの責任をとってもらうぞ。

アンティゴネ(音楽に合わせて語る) ああ、あの言い方では、いよいよわたしの死ぬ時がやってきたのね。

クレオン(音楽に合わせて語る) そんなことはないから元気を出せと気休めを言うつもりはないからな。

アンティゴネ(音楽に合わせて語る) ああ、わが祖国テーバイよ、わが家の守り神よ、わたしは今にも連れて行かれる。テーバイの長老たちよ、見ていてちょうだい。王家に一人残った女が、神の掟を守ったためにに、どんな人からどんな目に会わされたかを。

(アンティゴネ、召使たちに引かれていく)

老人たち(歌う)

 あの美しいダナエも、お墓のような牢獄に閉じこめられて自由を失った。彼女は、空の光と別れを告げて、青銅の部屋の暮らしに耐えた。しかし、娘 よ、高貴な生まれの彼女は、黄金の雨に姿を変えたゼウスの子を身ごもった。まことに運命の力は恐ろしい。富も、戦も、城壁も、波打つ黒い船も、運命を変え られない。

 ドリュアスの子でエドノイ人の王だった気性の荒いリュクルゴスも自由を失った。罵詈雑言ゆえに、神ディオニュソスによって岩の牢獄に閉じこめられ た。そこで恐ろしい狂気から目覚めたとき、狂気の中で暴言を浴びせたのが神だったことを知る。彼はバッカスの祭りの火を消して、神憑り(かみがかり)の女 たちを黙らせようとした。そのうえ、笛を愛するミューズの神をも怒らせた。

 シュンプレガデスの黒い岩のあるボスポラス。その近くの岸辺にサルミュデソスというトラキア人の国がある。その国の近くに住む神アレスは、ピネウ スの二人の息子が残虐な継母のために忌まわしくも傷つけられて、めくらにされるのを見た。二つの瞳は、血まみれの手によって梭(かい)の先を突き立てられ たとき、復讐を誓った。

 母親の不幸な結婚から生まれたこの二人は、哀れにやせ細り、自らの悲しい運命を嘆いた。母親のクレオパトラは、由緒あるエレクテウスの血を引き、 北風の神ボレアスの娘として、遠くの国の洞窟で、父親の吹く風に育てられた。駿馬のように軽やかで高い山も軽々と越える神の子なのに、娘よ、その人でさ え、老いた運命の女神の与える試練に耐えた。

(テイレシアス、子供に導かれて入場)

テイレシアス テーバイの長老のみなさま方、われら二人、歩みを合わせてやっと着きましたぞ。二人のうちで見えるのはこの子一人、案内(あない)の手を借りるめくらの歩みとはかようなものじゃ。

クレオン これはこれはテイレシアス殿、何か変わったことでもありましたか。

テイレシアス それはこれから教えてさしあげる。おまえはこの予言者の言うとおりにするのじゃぞ。

クレオン とにかく、これまでわたしがあなたの忠告に背いたことはありません。

テイレシアス それだからこそ、おまえもこの国の舵取りを間違わずにいるというものじゃ。

クレオン あなたには大変お世話になっておりますので、それは断言してもよろしいでしょう。

テイレシアス それならば、よく聞きなされ。おまえは今また運命の瀬戸際に立たされておる。

クレオン どういうことですか? 何をおっしゃるかと、不安でなりません。

テイレシアス わしの占いの術が明らかにしたことをよく聞けば分かるはずじゃ。

 わしはいつものように、すべての鳥が集まる鳥占いの座についた。すると、いままで聞いたことのないような鳴き声が聞こえてきたのじゃ。それは気味 の悪い不可解な鳴き方じゃった。わしは鳥たちが爪で互いに傷つけ合って殺し合いをしていると判断した。それは激しい羽ばたきの音から明らかだったのじゃ。

 心配になったわしは、すぐに火の燃えさかる祭壇で生け贄の占いを試した。ところが、生け贄には火がつかず、ももの肉からにじみ出た汁が灰の上に落 ちて、パチパチと音を立てながら煙を巻き上げた。さらには、胆のうがはじけて空中に飛び散り、ももの骨を包んでいた脂肪が溶け出して、骨がむき出しになっ てしもうたのじゃ。
 
 この一部始終の様子はこの子から教えてもろうた。わしがみなの先達であるとすれば、この子はわしの先達じゃからのう。
 
 このありさまから分かることは、この国がおまえのやり方がもとで病んでいるということじゃ。国の祭壇も、家々のかまども、いくさに倒れた哀れなオイディ プスの子の腐肉を、鳥や野犬が運んでくるために、ことごとく穢(けが)れているぞ。それゆえ、神々はわしが生け贄を捧げて祈っても、もも肉を焼いても、受 け入れては下さらないのじゃ。また、鳥たちは、殺された人の血にまみれた脂で腹をふくらませているために、前兆を知らせる鳴き声を立てないのじゃ。
 
 おまえは、これらのことをとくと考えるがよい。過ちを犯すのは人間の常じゃ。しかし、過ちを犯してもそれを改めるにやぶさかでなければ、その人間はけっして愚かでもないし馬鹿でもない。愚か者の烙印を押されるのは、むしろ我を張りとおす人間のほうなのだ。
 
 いい加減におまえも死んだ人間の権利は認めてやれ。死者を鞭打ってはならんぞ。死んだ者をもう一度殺したところで、どんな手柄となるというのじゃ。
 
 わしはよく考えた上で忠告している。役に立つ忠告は素直に受け入れる、これ以上に望ましいことはないぞ。

クレオン ご老人、まるで狩人が獲物を矢で狙うように、みながつぎからつぎへとわたしを狙ってやってきましたが、とうとう占い師のあなたまで来たのですか。

 わたしは、占い師たちによって、さっそく取り引きの材料にされたということですね。あなたもお金儲けに励むがいいでしょう。欲しければ稼いだお金で、サルディスの白金(しろがね)なり、インドの黄金なり、好きなものを買えばいいのです。

 でも、あの者に埋葬の儀式をすることだけは許しませんよ。たとえ、ゼウスの鷲が、あの者の腐肉をくわえてゼウスの玉座に運んだとしても、わたしは穢れを恐れてあの者の埋葬を許すようなことは決してありません。
 
 わたしはよく知っていますが、そもそも人間の身で神の座を汚すことの出来るような者は一人もいないのです。テイレシアス殿、どんなに賢い人でも、欲に駆られると、恥ずべき考えをきれいな言葉で飾ろうとして、みっともない失敗をするものでございますな。

テイレシアス ああ、お前たちの中に誰かいないのか、わしの言うことが分かる人間は・・・

クレオン 何をですか? みなに向かっていったい何をおっしゃりたいのですか。


ゆったりサイズの女性が常に男性

テイレシアス 賢明な判断が、どれほど大きな富であるかということをじゃ。

クレオン 愚かな判断が、どれほど大きな災難であるかということですね。

テイレシアス ところが、おまえが巻き込まれているのはまさにその災難じゃ。

クレオン わたしは占い師に対して悪口を言いたくはないのです。

テイレシアス もう悪口を言っているではないか、わしの占いを嘘だと言って。

クレオン とにかく、占い師というたぐいの人間は、みな金を欲しがるものですからな。

テイレシアス 王の血を引く人種も、私利私欲にかられるものじゃ。

クレオン その言葉は、わたしを支配者と分かってのうえでの言葉か?

テイレシアス 分かっているとも。あなたはわしのおかげで支配者になった人間だからな。

クレオン あなたは頭のいい占い師だが、腹黒いお人だ。

テイレシアス 心に秘めておくべきことまで、このわしに言わせるつもりか。

クレオン おっしゃるがよい。ただし、それで得をしようなどと思わないことだ。

テイレシアス おまえにはこのわしがそんなことをするような人間に見えるのか?

クレオン そうだとも。わたしの決心を売り買いすることは出来ないものと覚悟されよ。

テイレシアス おまえの方こそ、覚悟しておけ。おまえは、今日という日が終らぬうちにも、二人の人間の死の償いとして、おまえの身内から一つの遺体をさし出すことになるだろう。

 それは、おまえが生きた人間を無慈悲にも墓の中に閉じこめて、この世の者を地獄に落とし、その一方で、あの世のものである死体を、清めもせず葬儀もせずに、この世にとどめおいたことの報いなのだ。
 
 死者の埋葬は、天上の神々さえもあずかり知らぬこと、ましてやおまえの権限など遠く及ばぬことなのだ。それなのに、おまえはあの遺体を冒涜したのだ。こ の罪の償いをさせようと、地獄の死人のために復讐を行うエリニュエスの神が、遅まきながら破滅に追い込もうとおまえを待ちうせている。おまえは、これから 同じような不幸を味わうことになるのだ。
 
 わしが金をもらってこんなことをしゃべっているかどうか、よく考えて見るがいい。遠からぬうちに、おまえの家からは、男と女がともに泣き声を上げるのが聞こえてくるだろう。
 
 いっぽう、兵士たちの切り刻まれた亡骸が犬や野獣や鳥たちによる埋葬を受けて、悪臭がかまどにもたらされた国々は、ことごとくおまえに対して憎しみをもやしているだろう。
 
 わしが腹立ちまぎれにこんなことを言ったのも、それはおまえがわしを怒らせたからだ。わしがまさに狩人のようにおまえの心に放ったこの矢は、あやまたず的を射抜くぞ。おまえは焼けつく痛みを逃れることはできまい。
 
 (子供に)さあ、わしを家まで連れ帰ってくれ。この人の怒りの矛先は、わしよりもっと若い人に向けてもらうとしよう。そして今よりもっと丁寧な口の聞き方と、今よりもましな分別を身につけるべきことを学んでもらうとしよう。

(テイレシアス退場)

老人 陛下、あの方は恐ろしい予言を残して立ち去られました。わたくしどもの髪の毛が黒から白に変わるまでの間に、あの方が国民に対して嘘を言ったことは一度もございません。

クレオン わたしもそのことを知っているから、この胸に不安がよぎる。彼の言うことに逆らって災難に巻き込まれるのも恐ろしいことだが、言われるままに動くのも恐ろしいことなのだ。

老人 クレオンさま、ここは、賢明なるご処置が肝要かと存じます。

クレオン どうしたらいいか言ってくれ。そのとおりにしよう。

老人 今から岩の牢獄に行って娘を出しておやりになり、放置してある遺体に墓を作っておやりください。

クレオン 本当にそう勧めるのか。譲歩すべきだと言うのか。

老人 そうでございます。できるだけ急いでくださいませ。災いの神は考え違いをした者の退路を足早に断つと申しますから。

クレオン うむ、残念だ。辛いことだが、命令を撤回しよう。運命に対して勝ち目のない戦(いくさ)はすべきではない。

老人 それなら、ほかの者に委せず、自らお出かけになって実行に移すことでございます。

クレオン ではすぐに行こう。召使いたちも、さあ、一人残らずみな行こう。手に手に斧を持って、ここから見えるあの場所に向かって走るのだ。

 こうして決定を覆した以上は、娘を閉じこめたわたしが自ら娘を解放してやろう。昔からの掟を死ぬまで守りとおすことが最善の道ではないかと、わたしにも思えてきたのだ。

老人たち(歌う)

 ああ、バッカスよ。多くの名をもつ神よ。あなたはカドモスの娘の自慢の息子、しかも雷鳴とどろかすゼウスの子。あなたは、名高きオイカリアの守り 神であり、デメテルを慕って万人が集うエレウシスの谷の支配者でもある。バッカスの信女たちの母国テーバイ、イスメノスの豊かな流れのほとりにあるテーバ イ、どう猛な竜の歯から市民が生まれたテーバイに、あなたは住まう。

 あなたは、火花散る松明の煙の中、コーリュキオンのニンフがあなたを慕ってたむろする二つの峰の上にいた。そして、カスタリアの泉に近づき、きづ たが絡まるニュサの頂(いただき)を通り過ぎ、ブドウの木が緑なす岸辺を通り、神々しい讃歌に包まれながら、テーバイに向かってやってくる。

 あなたと、稲妻に焼かれたあなたの母は、この国をことのほか愛したまう。この国が恐ろしい病に取り憑かれている今こそ、パルナッソスの高みを越えて、あるいは、波騒ぐ海峡を渡って、この国を浄めに来りたまえ、

 おお、燃え立つ星々の合唱隊を率いる神バッカスよ、夜の叫びを自在に操る神よ、ゼウスの御子、または、支配者イアッコスと呼ばれる方よ、さあ、姿を現したまえ。夜通し狂乱のダンスであなたを讃えるテュイアスのニンフをしたがえて。  


 
伝令 テーバイの代々の王カドモスとアンフィオンのご城下に暮らす皆々さまに申し上げます。

 他人の人生がどうであろうと、わたくしは、それを誉めたり貶(けな)したりするようなことは決してすまい、といま思っております。なぜと申せば、 日々の運命の変転によって、幸福な人が不幸になったり、不幸な人が幸福になったりするために、現在の状態を見て、明日(あした)それがどうなるかを当てる ことは、誰にもできないからでございます。

 クレオンさまも、さきほどまでは、わたくしにとっては、うらやむべき存在でした。カドモスの国を敵の手から救い、この国の権力を一手に握って、政 治(まつりごと)を取り仕切っておられたからでございます。そのうえ、たくさんの立派なお子たちにも恵まれておられました。ところが今では全てを失ってし まわれたのでございます。

 と申しますのは、生きる喜びを失った人間は、すべてを失ったに等しいからでございます。それはむしろ生ける屍と申せましょう。立派なお屋敷に住ん でいようと、王侯の暮らしをしていようと、生きる喜びがなければ、そんな人生には霞か影ほどの値打ちしかないがゆえでございます。
 

老人 お前が王家の人たちについて持ってきたその悲しい知らせは何だ。

伝令 死人が出たのでございます。その死をもたらしたのは、今もご存命の方でございます。

老人 何だって? 誰が誰を殺したのだ、はっきり言いいなさい。

伝令 ハイモンさまが亡くなられたのでございます。あの方の血を流したのはけっして他人の仕業ではありません。

老人 では父親の仕業なのか、それともご自分の手でなさったことなのか。

伝令 死刑を行った父親に対する怒りから、我とわが身をさいなまれて。

老人 ああ、予言者よ、あなたの言葉はみごとに成就した。

伝令 事態がこうなってしまった以上、みなさんには今後のことをお考え頂かねばなりません。

老人 それよりも、それ、そこに、クレオンさまのお気の毒なお妃エウリュディケさまがお見えになった。たまたま出てこられただけなのか、それともご子息の事件をお聞きになったのか。

エウリュディケ 皆さん、わたしは女神アテナのお参りに行こうと外へ出るところでした。すると、あなたたちの話し声が聞こえてきました。そしてわたしが閂(かんぬき)をはずしてとびらを引こうとしたとき、わが家の不幸を伝える声がわたしの耳に飛び込んできました。


 その時は怖くなって、侍女(じじょ)の腕の中に倒れて気を失ってしまいましたが、もう大丈夫です。わたしも不幸の味を知らぬ女ではありません。何があったのかわたしにくわしく聞かせてください。
 
伝令 奥さま、わたくしは現場に居合わせましたので、本当のことを残さずお話しましょう。気休めを言ったところで、嘘はあとで分かります。真実は常に正しいと申しますから。

 わたくしは案内役としてご主人のお供をして、平野(ひらの)の端まで参りました。そこには哀れなポリュネイケスさまの亡骸が犬に食い荒らされたま ま放置してありました。わたくしたちは道祖神と地獄の神にお祈りして、お慈悲をもってお怒りをお鎮め下さるようお願いしました。

 そして、ポリュネイケスさまの亡骸をきれいに洗い清めて、刈り取ったばかりの薪を集めて、ご遺体を荼毘(だび)に付しました。そして、あの方の生まれた祖国の土を高く盛り上げて、塚を築きました。

 それから、わたくしたちは娘の洞窟、死神の花嫁の部屋へ向かいました。すると、ある者が、娘の不浄の部屋で鋭い泣き声がするのを遠くから聞きつけて、クレオンさまにお伝えしたのです。
 
 そこで近づいていくと、痛ましい声がかすかにクレオンさまの耳にも聞こえてきました。するとあの方はうめき声を上げて、悲しみに満ちた声でこうおっしゃいました。
 
 「まさか、恐れが現実になったのではあるまいな。今日がわたしの生涯で最も辛い日になるのではあるまいな。わたしの耳に息子の声が聞こえるのだ。召使の ものたち、今すぐ墓のところまで行って、入り口に積み上げた石のすき間から中に入って、この声が本当にハイモンの声なのか、それとも神さまがわたしを惑わ しておられるだけなのか確かめてきてくれ」
 
 憔悴した王の求めにしたがって、わたくしたちは墓穴の奥まで確かめに行きました。そして、墓の奥に、薄布をよって作ったひもで首をつった娘の姿を見つけ ました。ハイモンさまは、娘の腰のあたりにすがりついて、あの世へ行った花嫁に涙を流し、父親の仕打ちと、叶わなかった結婚を悲しんでおられました。
 
 王は息子を見つけると、ひどく嘆いてから、中を進んでいき、泣きながら息子に呼びかけられました。
 
 「ああ、なさけない。お前は何ということをしてくれたのだ。頭がどうかしてしまったのか。どうしてこんな馬鹿なことをしているのだ。そこから離れてくれ。頼む。お願いだ」
 
 しかし、息子さんはそれには答えず、父親をものすごい形相でにらみつけて、相手の顔へ唾を吐きかけ剣を抜いたのです。しかし、お父さまが飛びのいたので、切りつけることは出来ませんでした。

 すると、息子さんは、おかわいそうに、自分自身に怒りの矛先を向けて、とっさに剣をご自分の脇腹にあてがって、ぶすりと突き刺したのです。そし て、もうろうとして力が入らないままに、娘を自分の腕にかきいだきました。烈しく息をはずませるあの方の口からは、真っ赤な血がほとばしって、娘の白い頬 を染めたのです。
 
 今では、二つの亡骸は抱き合うようにして横たわっています。お気の毒なハイモンさまは結婚式をあの世で挙行されたのです。そして、人間にとって分別を欠くことがどれほど大きな不幸であるかということを、人々に示されました。

(エウリュディケ、宮殿の中に退場)

老人 これはどういうことだ思われる? 奥さまは一言もなしに行ってしまわれた。

伝令 わたくしもさきほどから驚いております。しかし、あの方は、お子さまの悲しい知らせに接して、人前で涙を流すことを嫌われたの かもしれません。家の中で召使たちといっしょにご不幸を嘆くおつもりだと思います。分別のある方ですから、よもや間違いを起こされるようなことはあります まい。

老人 それはどうかな。あまりに悲しまれるのも心配だが、何もおっしゃらないのもかえって心配だ。

伝令 わたくしが中に行って見て参りましょう。奥さまが悲しみのあまり、何かよからぬ考えを胸に秘めておられるのでなければよいのですが。まったくあなたの言うとおりです。全然何もおっしゃらないのもかえって心配です。

老人(音楽に合わせて語る) おや、そこに、陛下がみずからお出ましだ、明らかな罪の報いを手にしながら。こういってよければ、これは他ならぬ自分自身の過ちが作り出した破滅。

クレオン(歌う) ああ、愚かさと強情さのために起きた致命的な過ちだった。ああ、見てくれ。何と、殺した者と殺された者が、血のつながった親子なのだ。これはわたしの愚かな考えがもたらした不幸。

 ああ、息子よ、若くして早死にしたお前、ああ、お前は悪くない。お前が死んであの世に旅立ったのは、わたしの愚かな考えのため。

老人(音楽に合わせて語る) ああ、きっとあなたは何が正しいかを知るのが遅すぎた。

クレオン(歌う) ああ、不幸にして、いま分かったぞ。あの時わたしの頭を打ちのめし、大きな不幸をもたらしたのは、神のしわざ。神がわたしを惑わして残酷な方法をとらせたのだ。ああ、わたしの喜びは踏みにじられた。ああ、これは人間にとって耐え難い苦しみだ。

伝令 どうやら陛下は、ご不幸が新たに加わったことをご存じないままにお出ましになられたご様子。陛下は、その腕に抱えておられるほかに、もう一つのご不幸をお館の中で目にされることでございましょう。

クレオン いったい何だ。いまの不幸以上に大きな不幸があるのか。

伝令 お気の毒なことに、お妃さまが、お亡くなりになられたのでございます。あの方は、すでに亡きこの方の実の母親。この新たな痛手に耐えられなかったのでございましょう。

クレオン(歌う) ああ、ああ、忌まわしい死に神に、この家は取り憑かれている。どうして、どうしておまえは、わたしを苦しめる。さきほど悲しい知らせをもたらしたばかりの おまえが、この上、何を言い出すのだ。ああ、ひん死のわたしにとどめを刺すつもりか。また何を言い出すのだ。ああ、ああ、息子が死んだそのうえに、新たに 妻も死んだというのか。

伝令 ご覧ください。いま目の前に出てまいります。

(宮殿の扉が開かれる。エウリュディケの遺体が現れる)

クレオン(歌う) ああ、そこにもう一つの不幸が見える。この上、どんな運命がわたしを待っているのか。息子の亡骸をこの手に抱いたばかりだというのに、目の前にもう一つの亡骸があらわれるとは。おお、不幸な母と不幸な子よ。

伝令 奥さまは、名誉の死を遂げられたメガレウスさまのことを声高く悲しまれ、次に、こちらのハイモンさまを悼まれ、最後に、息子の 死をもたらしたあなたに不幸あれかしと呪われました。そして、祭壇のかたわらで、研ぎ澄ました短剣をつかんで、我とわが身をさいなまれて、ご瞑目なされた のでございます。

クレオン(歌う) ああ、恐怖で足がすくむ。誰かこの胸に、鋭い剣をぐさりと刺してくれ。何と惨めなわたしであろうか。わたしは惨めな不幸に囚われている。

伝令 この子が死んだのも、あの子が死んだのも、みんなあなたのせいだと、ここに横たわる奥さまは、おっしゃいました。

クレオン わたしの妻はどのようにして自害したのか?

伝令 奥さまは、お子さまのこの悲しい死を知らされたとき、ご自分の手で自らの胸を突き刺されたのでございます。

クレオン(歌う) ああ、どれもこれもわたしのせい、わたしの責任だ。ああ、妻よ、わたしがおまえを殺したのだ。なさけないが、ああ、これが真実だ。ああ、召使たちよ、わたしはもう無きに等しい存在だ。わたしを一刻も早くどこかへ連れ去ってくれ。

老人 それはよいお考えです。不幸な人にとって仮にも何かよいことがあるとしたら、目の前の不幸をなるべく短かくすること。これに越したことはありません、

クレオン(歌う) 殺せ、殺せ、わたしにはそれが最善の道。最後の日こそ、わたしには最良の日。殺せ、殺せ、明日なんか見たくない。

老人 それはもっと先になさいませ。今しておくべきことがございます。未来のことは、未来を司(つかさど)る神がなさいます。

クレオン わたしの願いはこの一事につきている。

老人 もう何もおっしゃいますな。死すべき人間には、運命の定めた不幸を逃れるみちはないのです。

クレオン(歌う) わたしをここから連れ去ってくれ。この愚かな男を。おお、息子よ、おまえと、そこいる妻よ、おまえを、心ならずも殺してしまったこのわたしを。ああ、なさけない。

 わたしはどうすればいいのか、何を頼りにすればいいのか、分からないのだ。わたしの手がけたものは全て失敗し、その上、耐えがたい運命が、頭上からわたしに襲いかかった。


老人(音楽に合わせて語る) 思慮分別は、幸せになるために、何よりも大切なもの。神々に対しては、決して不敬なことをしてはならない。思い上がった大言壮語が手痛い報いを受けて、人は年老いてから分別を知る。(了)

※誤字脱字に気づいた方は是非教えて下さい。

(c)2001  Tomokazu Hanafusa / メール

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