2012年5月10日木曜日

教理説教1  神を知る――啓示1 - 小海キリスト教会牧師所感


教理説教1  神を知る――啓示1

1コリント2:11、ローマ1:18−23 2テモテ3:15、16

2012年1月15日 小海主日礼拝

 物事を正しく知るには、「木を見て森を見ず」ということになってはならないし、また「森を見て木を見ず」ということになってもなりません。「木を見、また森を見る」ことが必要です。聖書の学び方には二通りあって、通常、聖書の各書を順々に味わって、聖書全体の教えにいたるようにという道、聖書全体を主題別に取り上げて部分にいたる道があります。いずれの方法にしても、木と森の両方を見ることをねらっています。いつもは聖書各書を連続的に解き明かすという、木から森にいたる方法をとっているのですが、年末から祈ってまいりまして、今年はこれからしばらくじっくりと聖書の教えを主題別に学んでまいりたいと願っています。森から木への道です。組織神学的な学び方ということです。

(ただし、聖書は神のことばであるという信仰のない聖書学者の考え方では、各書、あるいは各書の史料の分析にエネルギーを注いでいますから、木のみ、さらに枝のみを見て、森は見ないということになります。彼らにとって森を見ることはナンセンスなのです。)

 今後の、おおよその流れを予め申し上げておけば、<啓示、神、人間、キリスト、聖霊、教会、終末>という流れになります。今日は啓示についてです。「啓示について」では、私たちはどのようにして神様と神様のみこころを知ることができるか、神様はそのことをどのように教えてくださったのかということを学びます。

1. 神を知り、神に知られる

「2:10 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。 2:11 いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。」1コリント2:10,11

 私たちが何かを知るという場合、知る対象が二通りあります。一つは物が対象である場合で、もう一つは人格があいてである場合です。物が対象である場合には、知るのは私の側であって、物はただ一方的に知られるということになります。物が対象であるばあいには、私たちはそのものを外側から観察してみたり、重さを量ってみたり、あるいは切り刻んで顕微鏡で調べたりなどと、いろいろな方法で詳しく調べることができます。

 ところが、人格が相手であるばあいはどうでしょうか?たとえばあなたが隣人のことをもっと知りたいと思って、体重や身長を測定したり、ばらばらにして顕微鏡で調べたりしても、その隣人のことを知ることができるでしょうか。できるとしても、それはその隣人の物質としての側面を知りえただけのことで、その隣人の人格を知りえたわけではありません。人格を知るためには、ふたつのことが必要なのです。

 第一は、その人格が、自ら心と唇を開いて、その心のうちにあることを話してくださるということです。「人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。」とみことばが言うとおりです。

2012年5月8日火曜日

投げ出される命


  • 陛下の英国ご訪問
    08 5月 2012 8:00 PM | No Comments

    皇室への評価は国内より海外の方が高いのではないのかしら。 ご健康も気になりますが閣議決定により、今上陛下は来週英国へご訪問されます。 英国の王室より、格式は上だと言われます。 決して英国を卑下するわけではありませんが、英...

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  • 引き継ぐ命ですか。
    08 5月 2012 6:53 PM | No Comments

    公がこの生命をポスティングを認めるシステムを五年前から批判してきた。 81人の命がすくわれたと考えること可能かもしれないが、わたしは、納得はできない。 赤ちゃんポスト、引き継ぐ命 開設5年で計81人 熊本 生まれてきた子...

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  • アクセル・ワールド
    08 5月 2012 6:00 PM | No Comments

    現在放送中のアニメ。 1~3話までは面白いとは思わな勝ったのだけれども、4話目あたりからの展開で興味がひかれたので、録画を見直す。 黒雪姫、ハル君。どちらもなかなかいい感じだ。これを1クールでどうまとめるのか少し不安だが...

  • 2012年5月7日月曜日

    キリスト語録8:キリストが来た理由 | 布忠.com


    「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ福音書3:16)

    イエスと問答するうちにパニックになってしまった教師ニコデモ。そんな彼にイエスは、「はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証(あか)ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天からくだって来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。」と筋道をたてて説いていきます。そして、ユダヤ人なら誰もが知っている"モーセの蛇"に自分をなぞらえるのです。

    「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」

    2012年5月5日土曜日

    上野公園でみたホームレスの礼拝 - キリスト者として今を生きる - Yahoo!ブログ


    すみません。。。
    笑いながら読んでしまいました。
    >豊かな階層が多い(気がする。)。。。気がするのではなくその通りのような。。。気がします(笑
    それでいて創価学会やプロテスタントのように私財を投げてまで寄付をする人も少ないです(爆
    >裕福な家庭の奥さまで、ガーデニングなんかに精を出しながら。。。のくだり、
    STARさん。。。面白すぎます。。。
    なんだか私も情けないカトリック者ですが(^^;
    伝道ってなんでしょうかね。
    私は私自身の行き方かしら???なんて思いますがその部分から逃げているのかもしれません。

    2007/11/3(土) 午後 8:52

    あまのじゃくの仏教者は、ホームレスに説教する人は嫌いです。宗教家であっても、政治家であっても、慈善家であっても、庶民であっても、誰であってもです。そんなことをする暇があれば、黙って彼らの前に温かい食べ物かわずかなお金を落として、気づかぬふりをして去ればいい。それができなければ、そっとしておいてやれと思います。

    2007/11/3(土) 午後 9:03

    Starさん、絵より印象的な光景にぶち当たってしまいましたね。私もきっと足を止めてしまったと思います。私もうしどしさんの意見に賛成だなあ。上の飢えの上野の光景は犬にエサ与える時の、「待て」「よし」みたい。ところで本当に、ごミサ、ゴミさ、なんてマジで言ってるの?

    2007/11/3(土) 午後 9:31

    まぁ、見て見ぬ振りするよりは、まだいいとは思いますが、恩着せがましいのも何だか気持ちフィットしませんねw

    2007/11/3(土) 午後 9:32 [ zgenech ]

    ひねくれ者で、何の信仰も今のところもたない私ですが、聖書の祈りの言葉や般若心経はそらんじています。PCのヨコには仏壇もあり、毎日灯明もともし、毎年初詣にも。
    だからなんなの・・そうです。ただの気休め、かも知れません。
    宗教は むずかしい。でもまったく否定する気にはなれないです。
    伝道に歩く方は、自分ひとりが救われるのではなく 他の人もすくわれたらいい、と心から思っているということは理解できます。そのことは尊敬します

    心がすくわれること。人に寛容になれることが宗教のメリットかな。と思っています。(メリットを求めて信仰に入るわけではないでしょうけれどね)
    でも、そうじゃない宗教がらみの紛争や人殺しが多くて、日本人はスピリチュアル系に逃げているように見えます。それもなんだかなあ。

    お天道様に恥ずかしい、と言う感覚のなくなった無神論者の群れは・・・軌道を逸してしまう時を迎えないか。それは恐ろしい気もします。心の心棒がない、ぶれてしまう。そういう集団は、安易に、暴走しないかなあ。なんて考えます。

    2007/11/3(土) 午後 9:41

    starさん、こんばんわ、僕もわけあって上野のホームレスの人達と知り合う事が10年以上前にありまして、その人達と話をした事が有るのですが、毎日が生きる事で必死だとおっしゃっていました。冬の寒い日などは寒くて寝ているどころではなかったそうです。僕は宗教はよくわからないのですが、アメリカのケネデイ大統領がアメリカ史上唯一のカトリック教徒で後はみんなプロテスタントらしいのですが、なぜアメリカではカトリックの人間が大統領選挙に勝てないのかその訳もわかりませんが、日本のキリスト教会が、こうゆう困った人達を何かしら援助しているのは、大変素晴らしいことだと思います。そういえば日本の中核派などは、ホームレスの人達にパンや飲み物を配って、支持を集めているそうです。日本人の夢や希望 などが無くなって、社会が複雑になってくれば、うつ病が増えたり、自殺も増えたりします。ましてや、明日もどうなるのかもわからなければ、よけい不安になります、宗教が良いとは言いませんが、オウムや統一教会のようにカルトでなければ、宗教にも人をひきつけるものがあると思います。

    2007/11/3(土) 午後 9:46 [ s_m*k*cho ]

    前のコメントでも書きましたが、本来なら政府自民党が困った人達を助けるべきなのに、財界や金持ちのほうだけを向いており、貧乏人には生活保護も出さない、そして改正する必要も無いのに憲法9条を改正すると言って、日本が戦前のような、軍国主義に向かおうとしています。このような状態に
    なればみんな危険を感じ取って、選挙で自民党が負けるのも当然の事だと思います。ただアメリカのように宗教団体が力を持って大統領さえ動かすようになったら問題と思います。ただ日本ではそれだけの権力は宗教団体は持たないでしょう、今日は、なぜアメリカではカトリックの人間が大統領選挙に勝てないのか、考えてみたいと思います。

    2007/11/3(土) 午後 9:46 [ s_m*k*cho ]

    のりちゃん、笑ってくれてありがとう(って礼を言ってる場合か。)上品なカトリック教徒は私財を投じたりしないんですよ、で、私財を投じることに対する反感あるでしょう、世間に。実際問題、それで家庭を壊したりするし。日常生活のバランスを崩さない程度になら信仰は許容されるけど、日常生活を崩したら非難され、「カルト教団」になるんじゃないかなあ。。。で、宗教っていうのは日常生活を壊す起爆剤ですからね。でも日常生活を全く壊さない信仰ってのもなんなのかなあとは思います。

    2007/11/3(土) 午後 11:55

    うしどしさん、私がこの光景に抱いた違和感とひっかかりもそこですね。けっこう強烈な光景でした。。。

    2007/11/3(土) 午後 11:58

    2012年5月4日金曜日

    TSUTAYAのDVDのレンタルは製品発売後何日経過してから??? | OKWave


    お気付きの通り、レンタル用のDVDと販売用のDVDはパッケージの表記が異なってます。

    その他、レンタル版は特典映像が無くて特典映像の代わりに他作品の予告編が入っている、スキップ出来ない予告編を見ないと本編が始まらない、レンタル版と販売版は卸値が違うなど、まったく違う物です。

    それに、販売版はレンタル禁止になっていて、販売版をレンタルするとメーカーからペナルティを食らう筈です。

    2012年5月2日水曜日

    エラガバルス・ヘリオガバルス


    エラガバルス  203−222.3.11 ★★★★★
    インペラトル・マルクス・アウレリウス・アントニヌス・ピウス・フェリクス・アウグストゥス・プロコンスル

    エラガバルスもしくはヘリオガバルス、またはサルダナパルスという名で呼ばれるこのローマ皇帝が一般的にどの程度知られているのか定かではありませんが、知ってる人は知っている、歴代ローマ皇帝中一番の色物的存在といっていいでしょう。
    エラガバルスは14歳で皇帝になり、様々な猟奇的ともいえる逸話を残してわずか18歳で周囲から見放され、体を切り刻まれてテヴェレ河に捨てられました。

    彼は世襲の役職であるエメサ(シリア)の神官をしている時に、祖母のユリア・マエサに担ぎ出され皇帝の座に着きました。
    祖母ユリア・マエサはカラカラの母ユリア・ドムナの妹にあたります。彼女はカラカラを殺して皇帝になったマクリヌスを追う為に、エラガバルスはじつはカラカラの庶子であったという噂 を流し、軍人に人気があったカラカラの威光を利用し、軍を掌握してマクリヌス追討に成功しました。
    カラカラ→エラガバルス→アレクサンデル・セウェルスとシリア系の母を持つ皇帝が繋がったことになります。

    こうしてシリア人のエラガバルス、本名ウィリウス・アウィトゥス・バシアヌスは「無敵の太陽神エラガバルス」の司祭長でありながらローマ皇帝となったのです。
    皇帝即位の約一年後、初めてローマ入りしたエラガバルスをローマ市民は驚愕をもって迎えました。金糸銀糸で織ったきらびやかなシリア風の長い服と輝く宝石類に身を飾り立てたエラガバルスと共に、エメサの神殿から運んできたご神体の「黒い石」がローマ入りしたのです。

    2012年5月1日火曜日

    ヴェールの内側から : ムスリム新聞


    なぜ、ムスリマ(女性イスラーム教徒)がヒジャーブ(ヴェール)をかぶるのか、といった疑問は多くの方がお持ちだと思います。伝統や風習の一部としてかぶる人、周囲の目を気にしてかぶる人、宗教の実践としてかぶる人、実際にはいろいろな人がいることも確かです。
     ここでは、ヴェールをかぶることに納得した著者の率直な感想が述べられます。


    ヴェールの内側から
    中田香織著

     私がムスリムになった当時、フランスでは、校内でのヴェール着用の是非が世論をにぎわしていた。宗教シンボルであるヴェールの着用は宗教的中立を掲げる公立学校の方針に反する、というのが大方の主張だった。宗教的に中立の立場を取るからこそ信仰の自由は尊重すべきであろうし、授業に差し障りがあることならともかく、単なる服装の問題になにをそう大袈裟に騒ぐか、と私には理解しかねたが、服装の問題だからこそ「目障り」だったのだろう。失業率の増加、治安の悪化とからんだアラブ人移民労働者問題にフランス人がナーバスになっている証拠に違いなかった。

     一方、アラブ諸国でも植民地時代の西洋化に対する反動から若い世代が再びヴェールを被り出していた。イスラームの後進性の象徴とみなされてきた女性のヴェールは、近代のアラブ諸国への西欧文化の流入によって、一時、いずれ廃れる運命にあるものと見えたが、今また急速に復活の兆しを見せている。こうしたヴェール復活に象徴されるイスラーム復興の動きは、一般には植民地化によって引き裂かれたアイデンティティーと経済的立ち遅れによって傷つけられた自尊心を取り戻すための試みと解釈される。

     アラブ人ムスリムのイスラーム固執は、おそらく一般的日本人の目には、伝統に固執する保守主義か感情的なアンチ西欧主義の現れとしか写らないに違いない。明治の日本人が西欧文化の流入に大いに反発し、着物から洋装への移行にも抵抗を示したのとあまり変わりない現象だと見ているのではないだろうか。人は一般に保守的な傾向を持ち、新しいものには善し悪しに関係なく反発を覚えるものである。

     ムスリム女性が抑圧の象徴であるヴェールに固執するのも、彼女ら自身が伝統に捕らわれ抑圧の事実に目覚めていないからだと考えられる。女性の解放、自立という時代の流れがいずれムスリム女性の許に届いたとき、彼女らもヴェールを取るだろう、などという手前勝手な予測がなされたりする。

     こうした見方がなされるのは、ムスリムにとってイスラームの教えは普遍的であり、時代の流れによって変わるものではないということが理解されていないためと、世俗主義、折衷主義的な宗教が氾濫するあまりムスリムのように生活の中心に信仰を据える生き方が信じられなくなっているためだろう。が、「進歩的」世俗主義者の予測に反して、イスラームを真の宗教と認め、ヴェールを被る女性は減少の傾向にあるどころか、国籍を越えて世界中のいたるところで増えている。私はほんのその一例にすぎない。

     ボーン・ムスリムと違って、私にはヴェールによって守らなければならない国も伝統も民族的アイデンティティーもない。私にとってヴェールは、社会的、政治的意味は持ちようがなく、私がヴェールを被るのは純粋に宗教的動機によるものでしかない。

     確かに、外から眺めたヴェールはとらえがたい異物である。女性の髪を隠すだけでなく、不透明な意味を隠し持つように見える。その不透明さこそが外の人間を不安にさせるのだろう。外からは決してヴェールの内側は見えないのである。

     私は90年冬にパリで入信して以来、ずっとヴェールをつけている。ヴェールといっても国によって、あるいは宗教意識の違いによって様々な形があり、私のヴェールも環境と意識の変化によってこの2年間に4段階に変化した。フランスでは服の色と揃えたスカーフをふんわりと被り首にくるくると巻き付けていたからファッションと見えたかもしれない。サウディアラビアに住む現在は、頭の先から足の先まで真っ黒、目も隠し、これ以上はもう何も隠しようのない格好をしている。ヴェールと称されるものの一番単純なものから一番極端なものまでを経験したことになる。

     私にとってヴェールがなにを意味するのか、ヴェールの内側からなにが見えるのかをここで話そうと思うのは、これまでヴェールについて書かれてきた多くのものが常に外からの視点を取っていることに不満があるからだ。実は、ヴェールには中からでなければ見えて来ないものがあるのである。

     2年前、入信した当時にさかのぼってみよう。入信を決意した時の私は、ともかくムスリムになりたい、という気持ちが先行し、1日5回の礼拝やヴェールの着用については深く考えていなかった。深く考え出したら入信の決意が揺らぐような気がして、あえて考えまいとしていたのかもしれない。なにしろ、1か月前にパリのモスクを訪れるまではイスラームとはまる無縁の生活をしていた私である。礼拝やヴェールになじみがなくても無理はなかった。礼拝する自分、ヴェールを被った自分など想像しにくかった。ただ、長いこと捜し求めていた真理にやっとたどり着いた、という思いだけは確かで、それがそうした先の不安を不安とも思わせなかった。やはり1つの奇跡が起こったのだろう、アッラーフクバル。